悪意のTA

山本正純

七年前の誘拐事件

平成十七年六月三十日。空に三日月が浮かび、街灯には虫が集まる。そんな人気のない東都公園のベンチに一人の少女が座った。
シンプルで丸みを帯びた輪郭。額を隠す程伸ばされた前髪。フェイスラインから垂れ下がった髪は顎まで伸ばされ、内側に軽く巻いてある。後ろ髪は肩の高さまで伸びていた。
そんな特徴の可愛らしい中学生、清水美里しみずみさとは、塾帰りに小腹が減り、公園のベンチで、コンビニで買ったおにぎりを食べた。
この買い食いという行為は、彼女にとって習慣化している。塾に通う日は、毎日のように行っているように。
この日の空は、天の川が綺麗だった。
夜空を見上げながら、おにぎりを食べ終わった時、公園に銃声が響く。
美里は、目を見開き、銃声の聞こえた方向に振り向いた。すると、彼女の視界は、その先に何かが吊り上げられているのを捉えた。
何かがと言ったのは、百メートル離れた木に吊るされていたからだ。よく見ると人のように見えた。
美里は悪戯だと思い、近づいた。だが五十メートル進んだ時点で、彼女は後悔することになる。
なぜなら、吊るされていたのは人形ではなく人だったからだ。暗くて吊るされている人の顔は、美里には分からなかった。
周囲を見回すと、帽子を深々と被った黒服の中肉中背な男が遺体の正面の白い壁に、赤色のスプレーで落書きをしている。
なぜ自分は逃げ出さなかったのか。すぐにでも警察に通報すれば、こんな怖い思いを抱かなくても良かったのにと、美里は後悔する。
清水美里は恐怖から一歩も動くことさえできなかった。そんな目撃者の存在に、落書きをしている男は、数秒で気が付いた。
男は目撃者の存在に気が付き、彼女の顔を睨み付ける。そうしてズボンのポケットからスタンガンを取り出し、目撃者の方へと歩き始める。
一歩も動けない目撃者の首に、スタンガンを当てることは容易なことだった。数秒間少女の体に電流が走っただけで、清水美里はその場に倒れ込む。
目撃者を作ったことは犯人にとっての誤算だった。黒服の男は、うつ伏せに倒れている目撃者の少女の顔を見降ろしながら、携帯電話を取り出し、仲間へ連絡する。
「俺だ。犯行を女に見られた。もちろんお前が持たせてくれたスタンガンで、気絶させたがどうする?」
『簡単なことですよ。目撃者を利用すればいい。これから言う通りにやれば、問題ないです。まず……』
電話の相手は、まるで最初からこうなることを知っていたかのように、黒服の男に指示を出した。
「そうか。分かったよ。それじゃあ、お前がこっちに着くまでに、ロープで女の手足を縛っとく。都合よくロープが余っているんでね」
『そうですか? それが終わったら、予定通り落書きを完成させてください。五分でいきます』
「分かった」
黒服の男は電話を切り、前方の壁を見た。それから視線を少女に向け、地面に置かれたリュックサックから、ロープを取り出した。
それを用いて少女の手足を縛ると、黒服の男は電話の相手の指示に従い、少女が手にしていた学習鞄から生徒手帳を抜き取り、それを開いた。
「清水美里。東都中学校の中学三年生か。馬鹿な野郎だな」
黒服の男は、呟きながら、生徒手帳を閉じ、先程殺害した男の手荷物に少女の生徒手帳を紛れ込ませる。
丁度その時、公園の駐車場に白色のヤンボルギーニ・ガヤンドが停車した。その直後、助手席から黒い影が降りた。
その影は、夜空を見上げながら携帯電話を取り出し、公園内にいる仲間へと連絡する。
「今着いた所です。そちらはどうですか?」
『ああ、完成したよ。意外と早く済んで、驚いてる。それじゃあ、合流しようぜ。警戒しながら、女を運ぶからな』
「了解」
黒い影が電話を切ってから五分後、黒服の男は、少女の体を担いで、駐車場に現れた。
後部座席のドアを開け、少女を寝かせると、黒い影は、黒服の男の肩を叩く。
「ご苦労様。これで始まりそうですね。半年前の復讐」
「ああ、そうだな」
黒服の男は、後部座席のドアを閉め、淡々と答えた。
「また明日」
黒い影が仲間に挨拶すると、黒服の男は頭を下げた。それから黒い影は、助手席に座り、自動車は颯爽と走り始めた。


「遅い」
都内の高層賃貸住宅、東都マンションの一室で、丸みを帯びた輪郭に老けた顔付きが特徴的な男が怒っていた。
その男、清水美里の父親、清水良平しみずりょうへい
彼が遅いと怒るのには理由がある。もう午後十時なのに娘が帰ってこないからだ。彼女は中学三年生なので最後まで塾に残り高校受験の勉強をしているはずである。そして塾が閉まるのは午後九時だった。塾から家まで歩いて十分なので遅くても午後九時半には帰っていないとおかしいのだ。
何かの事件や事故に巻き込まれたのか。嫌な予感が良平の頭を過った時、ようやく彼の携帯が鳴った。画面に表示されたのは美里の電話番号。
良平は娘を叱るつもりで通話ボタンを押す。
「美里だろ。今何をしている。早く帰ってこい!」
良平は物凄い権幕で怒りをぶつけた。だが、電話から聞こえてくるのは、娘の声ではなく不気味なボイスチェンジャーの声だった。
『清水美里を預かった』
一瞬何を言っているのか、良平には理解できなかった。
「冗談だろ」
手の込んだ悪戯電話であると良平は思う。だが、それを嘲笑うように、誘拐犯は清水良平に告げる。
『証拠はあるが、まだ警察に通報するな。明日の午前八時になったら、警察への通報を許可する。まあ、明日になったら警察がお前の所に来るから、その時に伝えれば、通報する手間が省けるかもね。もしも明日の午前八時以前に警察がお前の所に来るようなことがあったら、清水美里を、連続殺人事件の第二の被害者にする』
「連続殺人事件?」
『ああ、明朝、東都公園で男性の射殺体が発見されるだろう。その遺体は木の枝に吊るされていて、遺体の正面から、赤いスプレーで書かれた落書きが見える。その文字は、カタカナで、タイホシロ。いいかい? この電話の内容は、明日の午後八時になるまで、警察に知らせないこと。もし約束を破ったら、娘さんを第二の被害者にするよ』
「頼む。殺さないでくれ。美里の声を聞かせてくれ。そうだ。金はいくらでも出す。だから……」
清水良平は振るえるような声で、誘拐犯に訴えた。だが、誘拐犯は清水良平の声に聴く耳を持たない。
『悪いけど、娘さんは眠っているからね。声を聞かせることはできないな。僕が清水美里っていう中学生を誘拐したっていう証拠は、明日の午前九時に送るから。そして、次の連絡は明日の午前九時五分。その時に要求を伝えます。じゃあね』
誘拐犯からの電話が切れた。通話が切れたことを知らせる音が、清水良平の耳には、虚しい物に聞こえた。

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