異世界八険伝

AW

96.リベンジ

 突然の眩しさに視界が霞む。

 鼻を突く刺激臭が、過去の記憶を呼び戻す――。

 でも、ここはあのエリ村ではない。

 時間が巻き戻ってくれたらという儚い望みにしがみ付こうとする弱い心を、ボクは首を振って必死に打ち消した。



 次第に虹彩が緩み、懐かしい光景がボクの鼓動を早める――。

 膝に伝わるのはふわふわなセミダブルのベッドの温もり。淡いピンク色の毛布に、白く清潔な羽毛の掛け布団がボクの心と身体を優しく包み込んでいる。

 フローリングの床には液体が零れ落ちている。

 最初は涙だと思ったけど、どうやら飲み物か何からしい。近くに転がっている縁の割れたグラスが状況証拠を物語っている。

 無意識に脚で蹴ってしまったようだ。まずい、早く拭かなきゃ。

 辺りを見回し、テーブルの上に置かれたティッシュケースから数枚を抜き取ってすばやく拭き取る。丸めたティッシュを捨てようと、改めて周りを眺めると、意外な光景が目に飛び込んできた。

 6畳ほどの部屋は明らかにあの世界の物ではない。窓に掛かるレースのカーテン、白い壁には完成したパズルが飾ってあったり、カレンダーが掛けてあったり――極めつけは、テレビやシーリングライトの照明器具だ。恐らく、いや、間違いなくここは……日本。


 はっきりしてくる意識と対極に、霞んでいくのはついさっきまでの激闘の記憶――。

「夢を見ていた? もしかして、全部が全部夢だった? 」

 敢えて声に出して確認してみる。

 その声は、ボク(メルちゃん)の声ではなかった――。


 手を見る。

 ――幾多の岩を投げ続けた手はそこにはなかった。細く白い綺麗な指と、綺麗に整えられた爪が目に映る。


 顔を、髪を手で撫でる。

 ――メルちゃんのふんわりショートの感触もそこになく、ただ前髪が視界の隅を走るのみ。


 訳が分からず、部屋の端に置かれた姿見に向かって跳ぶように駆ける。ダメ元で使ってみた浮遊魔法は発動しない。


 そして……鏡の中に居たのは、ボクが知っている誰の物でもなかった――。


「あなたは誰? 」

 鏡に映ったその人も、ボクと同時に同じことを呟いたように見えた。当然の帰結として、ボクの呟きに返事は返ってこない。

 黒い髪と言えばアイちゃんだけど、歳は彼女より少し上に見えたし、何より顔や髪の長さが違い過ぎた。当然、メルちゃんの姿とも程遠い。元のリンネ、リーンに似てはいるけど、髪色は全く違うし、目鼻の大きさがリアルサイズに収まっていた。そしてその顔には、次第に焦りの表情が混じってきた。

「もしかして、男? 」

 無意識に胸部を擦った左手と、下腹部をチェックした右手がそのまま止まる。鏡に映し出された光景は変態行動そのもの。

 頭の中は既に真っ白。強いて言えば、不安と安心、そして僅かな疑念がごちゃ混ぜになった状態だ。遅れて、左手に右手には無い違和感がしっかりと伝わってきた。

 今さらだけど、中学だか高校の学生服を着ていることに気付く。こんな決定的な情報だけど、意外と意識に入ってこないんだね。鏡の中の少女の表情が苦笑に変わった頃、止まっていた時間が耳元から動き出した――。


「ピローン」

 はっとなって音の出所を探すと、それはテーブルの上に置かれた黒い箱――懐かしきスマホそのものだった。

 他人のスマホを盗み見る習慣なんて無いけど、気付いたらボクの手は既にそれを掴んでいた。


 指先がそっと画面に触れる。

 ロックは掛かっておらず、すぐにスリープ画面が解除されて、見慣れた壁紙が現れる。いくつかのアイコンに隠れて全貌は見えないが、このイラストにははっきりと見覚えがある――。

 そして目に飛び込んでくる日付。

 そこには“2017年10月15日(日)”の表示があった。


 ボクは咄嗟に記憶を遡った。

 魔王、天界、魔界、仲間たち、そして突然の召還――。さらに遡ろうと眉間に皺を寄せても、やはりそれ以前のことは思い出せない。自分がいつ召還されたのか、召還される前の住所や年齢、性別の類さえも、やはり思い出せない。当時抱いた違和感から、もしかしたら自分は成人男性だったのではないかと推測してみてはいたけど、その後はどうでも良くなっていた。と言うより、その違和感さえも忘れていた。改めて回想に挑んでも、以前のようにその厚い壁に跳ね返されてしまう。ダメだ、全く思い出せない――。


「ピローン」

 至近からの着信音で現実に戻される。どうやら両目を瞑ったまま、夢中で記憶の断片を追いかけていたようだ。

 慌てて“通知あり”をタップする。


『目が覚めたようだね。あちらに戻るか、それとも全てを諦めるか決めて』


『決まったかな? 諦めるなら、今すぐにそこの鏡を割って』


 起動したSNSには、2件のメッセージが届いていた。

「誰!? 戻るか、諦めるかだって? いきなりそんなことを言われても――」

「リリリーン」

 突然の着信音に焦りながら通話ボタンを押すと、聞き覚えのある音声が流れてきた。

『君を助けたのは僕だ。約束とは違う形になったけど、殺される前に元の世界に戻すことが出来て良かったよ』

「次元の存在!? そう……やっぱりあれは夢じゃなかったんだ。と言うことは、ここがボクが居た本当の世界ってこと? ボクの家ってこと? 」

『一応そうだけど、君が願っている家ではないよ』

「願っていない家? どういう意味――」

『何も変わらないどころか、辛いだけ。じきに分かるさ』

「辛い? 」

『あぁ、もう! 言うつもりは無かったんだけどね。君はこの世界の記憶を失った――そのくらいは分かるよね? それを代償に僕が君をあの世界に送る手助けをした。君もだけど、僕自身も極めて危険なことをしているんだ。さすがにこれ以上は言えない。それでも、君はそこまでしておいて何を欲したのかも覚えていないよね? 』

「無理矢理に召還されたんじゃないの? ボクは自分の意思であの世界に行ったの? 」

『あぁ、そうだよ! 君は死ぬほどこの世界に絶望し、泣き喚いていた。見かねた僕が手を貸してあげたんだ。人の記憶って凄いんだね。あんな状態だった君がこうも変わるなんてね』


 ボクはこの世界に絶望して異世界に向かった――いったい、何を求めて? 何をするために? ボクはこの世界に戻るつもりは無かったの?

「ボクの目的って何だったんだろう。どうしても思い出せない――」

『それを教えたら、また君は同じように願うだろう。でも、次は無い』

「でも、ボクが今からあっちの世界に戻りたいと願ったら戻れるんだよね? 」

『ラストチャンスだよ。僕はこっちの君は大嫌いだけど、あっちの君は大好きだからね』

「一応、ありがとう、と言っておく。だけど、戻ったところで魔王には勝てる気がしない――」

『ほんと馬鹿だね君は。身体を入れ替えなければ良かったじゃないか。仲間は数人失っただろうけど、魔王を確実に倒せたのに。それで君が当初の目的を達することが出来たかは分からないけどね。でも、そんな君だからこそ、僕は助けようと思ったんだよ』

「仲間は絶対に見捨てない! あの選択に後悔はないよ」

『ふーん。じゃぁ、1つプレゼントをあげよう。君のポケットに特別なアイテムを入れた。それがあればチャンスはあるかもね』

 アイテム?

 咄嗟にスカートのポケットを漁ったボクの手に、柔らかな感触があった。

「もしかして、これ? 」

 白くふわふわした物を掲げる。

『――違う! 』

 あ、これはさっきのティッシュだ。無意識にポケットにしまったんだっけ――。

 羞恥で熱くなった顔を下に向け、改めてポケットを漁る。

 すると、ボクの手はさっきと同じような白いふわふわした物を取り出した。これ、見覚えがある。

「羽――」

『どうやら星は全て揃ったみたいだし、君たちのその強い絆があれば、魂は繋がるはず。さぁ、鏡の中へ! 』

 力強い声に急かされて、スマホをテーブルに戻した後、ボクは部屋の隅に置かれた姿見に向かう。

 地味な木製の縁が、いつの間にか眩しいくらいに光り輝いている。

 天使の羽を包み込んだ両手を鏡に伸ばすと、表面に触れた途端、そこから波紋が広がるように波打ち、ボクの身体を必死に吸い込もうとする。

 この世界を、外の景色をもう一度見てみたい未練を振り切り、水紋に心と身を委ねて右足から身体を潜り込ませる。

『君の真の目的が叶うことを願っているよ――』

 優しく後押しするような声を背中で聴きながら、ボクの意識は薄れていった――。




 ★☆★




「うわっ!? 」

 突然空中に放り出される格好となったボクは、思わず悲鳴を上げた。

「えっ!? 」

 今度は、咄嗟に空中で体勢を整えた自分自身に驚く。

 その可愛い声に、可愛い服に、そして風に揺れる綺麗な銀髪に――。


[ステータスオープン!]

◆名前:リンネ
 年齢:12歳 性別:女性 レベル:37 職業:勇者
◆ステータス
 攻撃:11.85
 魔力:75.20(魔力常時2倍)
 体力:9.15
 防御:9.20(+5.60 魔法防御+4.00 状態異常無効 魔法攻撃無効)
 敏捷:9.25
 器用:2.80
 才能:3.00(ステータスポイント0)
◆先天スキル:取得経験値2倍、鑑定眼、食物超吸収、アイテムボックス
◆後天スキル:棒術/上級、カウンター、雷魔法/中級、回復魔法/中級、水魔法/上級、浮遊魔法(浮遊の腕輪)、転移魔法(黒竜の翼)、召還魔法/中級、暗視、時空間魔法(時間遅滞)
◆称号:ゴブリンキラー、ドラゴンバスター、女神の加護を持つ者、大迷宮攻略者、特別捜査官、ティルス市長、秩序神の愛、魔神の愛、魔王統一戦争優勝者、天神の愛(抹消)、邪神救済者

 何か分からないけどレベルが上がってる。上がった分のステータスポイントは魔力に全振りされているみたい。後世、歴史や魔法学者たちに“歴代最強の賢者”と呼ばれるかもしれないね。


 静かに目を瞑り、今度は心を整える。

 大丈夫、記憶は――ある。

 次元の存在に助けられ、現実世界に戻った自分。そこで見た姿。そして、ボクの真の目的を成すために再びこの異世界に戻ることを決意した自分――記憶は薄れることなく、ボクの掌の羽とともに確かにここにある。


 いつの間にか日食は終わりを告げ、今や太陽は西の空に帰ろうとしている。

 改めて30mほどの上空から見下ろす。

 大地に広がるのは、無残に黒く焼け焦げた跡。霊峰ヴァルムホルンのマグマが原因か、それとも――。

 峰伝いに見上げると、山頂にあった天界――崩落したその残骸は、跡形も無く吹き飛ばされ、三度その頂は姿を変貌させていた。


 振り返って目を凝らす。

 山麓にあった大樹林も、花々が咲き乱れる大草原も見るも無残な有様だ。黒い霧に覆われ、精気という精気が吸い取られて濃い瘴気を放っている。そして、その中で見つけた――。

 転移先の火口ドームで戦ったときに比べ、一回り、いや、二回りは大きくなっている魔王。ステータスは見えない。でも、漲る力と自信の故か、不思議と負ける気はしなかった。

「さてと。あれをどうやって倒そう」

 アニメとかだと、こういうラスボス戦って、正義のヒーローが集まって全員でタコ殴りするんだよね。正々堂々と1対1でなんて言葉はヒーローの辞書には載っていないんだ。それでも圧勝することも出来なくて必ずピンチに陥る。でもって、皆で力を合わせた必殺技で逆転大勝利。最初から使えばいいじゃんとツッコむ人は何も分かっちゃいない。必殺技はピンチにならないと使っちゃいけない設定なんだよ。だから、ヒーローに文句を言うのは筋違い。

 と言うか、そんなことは今はどうでもいい。そもそも魔王の精神攻撃に耐えられるのはボクとリーンしかいないし、その頼みのリーンは結界魔法で魔力切れだろうし――。

 じゃあ、どうする?

 魔力全快の今なら1対1でもぎりぎり勝てそうな気もする。でも、見ている方々には悪いけど、楽勝・圧勝を目指したい!

 と右の拳を握りしめたその時、脳裏に懐かしい念話の声が聴こえてきた。


(リンネさん! あぁ、やっと通じました! 本当に良かった! )

(あ、アイちゃん! みんなは大丈夫だった? )

(はい。リーン様はお疲れで就寝中ですが、リンネさんのお陰で全員元気ですよ! って、リンネさんも大丈夫なんですよね? 突然、メルさんが元のメルさんに戻ってしまったので――それで、みんなで心配してたんです)

(おぉ、メルちゃんもちゃんと戻ったんだ! 良かったよ。まぁ、その話は後でするね。今は下で好き勝手に暴れている魔王だよ)

(魔王……)

(どうすれば簡単に倒せるかなって考えてたの)

(そうですね。魔王が居た場所は地面がとても凹んでいました。相当な重量がありそうですね。そこを突ければ――)

(確かに、転移した時に一気に魔力が削れた気がしたよ。あの時で300kgは確実だとして、今は500kgを超えていると思う)

(なるほど、さらに成長していると。今となっては転移魔法でどこかに連れて行くという手段は無理ですね)

(うん。例えばだけど、海にうまく誘導して海溝に落とすというのは? )

(海にも生き物は居るんですよ。それに、魔王に与する魔物も)

(そっか――じゃぁ、地面に凄く深い落とし穴を掘って、そこに落とすのは? )

(地底は魔王の器になった悪魔たちの縄張りでしょう。逆に力を増す機会を与えてしまうかもしれません)

 ボクがぼんやりと考えていた2大作戦が共に没案になってしまった。流石は軍師様だね。

(アイちゃんならどう戦う? )

(そうですね。一か八かですけど――)



★☆★



「闇を貫け! ホーリージャベリン!! 」

 隣でボクが教えた中2っぽい呪文を唱えているのはアユナちゃんだ。

 次々に現れた12本の光の槍――長さが10mに迫る巨大な聖槍は、遥か上空から急加速して暗黒の闇へと真っすぐに向かっていく!


 アイちゃんの作戦第1弾として、召喚したスカイにボクとアユナちゃんが乗り、上空100mから魔法攻撃を繰り返している。あの重量が空に浮かぶことはないだろうという推測は大正解だった。一方的な蹂躙劇に少々同情すら覚える。でも、これが今のベストだ。


 光の協奏曲はフィナーレを迎えると、それを喝采するかのように風が砂煙を攫っていく――。

 旋回するボクたちの目には、黒い闇の岩を上に翳してガードする魔王と、それを地面ごと深々と貫く光の槍が見える。槍は、鉄壁を誇る闇の盾ごと、魔王を大地に縫い留めていた。

「本当に刺さってるね」

 12本の槍は光の檻を形成するかのように、規則正しく正十二角形を描いている。


「うん。ボクも撃つね」

「リンネちゃん、ファイトぉ!! 」

 魔力の8割を込める新技――サンダーフェニックス――この魔法は、単なる敵を倒すためだけの雷撃ではない。必要な場所のみを破壊する意思ある攻撃。今なら闇の盾に遮られることなく魔王を直撃できるはず。

 今回、ボクとアイちゃんが選択したのは、ほんの僅かに残る可能性。魔王の魂と、その器となった悪魔たちを分離するという方法だ。

 アイちゃん曰く、人間もAIと等しく電気的な生物だという。ボクたちが脳内の電流をニューロンが伝えていくのと同じように、魔王もその魂と器を電気的な信号で繋いでいる可能性が高いそうだ。その発電機たる心臓と制御装置としての脳を雷撃によって分断する。

 アイちゃんの作戦第2弾。もしこの魔法が成功すれば、器とのリンクを失った魔王の魂は再び――。

 左手に羽を握りしめ、右手に持つ自慢の杖に魔力を込め始める。

 みんな、力を貸して!


 ボクの中で蠢く魔力に一際大きな波が起こる。

 スパーク!!

 その瞬間、祈りと共に精一杯の魔力を込める!


 イメージするのは炎の剣となって一矢報いたフェニックスの雄姿――その姿が雷を纏ってボクの前に再現されていく。大きさは鷹くらいしかないけど、その黄金色に輝く翼が濃密過ぎる魔力を物語っている。

『キィエエエ!! 』

 気合いの咆哮を合図に、ボクは杖を一閃、大きく振り下ろす!

 フェニックスは大きく弧を描きながら地面すれすれを滑空し、とてつもない速度で魔王に向かって飛んでいく。

 対する魔王はその動きを警戒しつつも、身動きを完全に封じられているが故に避けることも防ぐことも出来ない。


「いけぇぇぇ!! 」


 ドスン!!


 超高速の光が、魔王の胸部に真っ直ぐ吸い込まれる!

 黄金色の光は、フェニックスの剣が貫きかけた鎧のひび割れ――そこから瞬く間に闇の中に溶け込む!


『ガァァァ!! 』


 全身から漏れ出る光の矢――まるで爆発寸前の爆弾の如く、大きく仰け反った後、叫び声を上げる魔王。そして、最期に一言、呟くような声――。


『リンネ、アリガトウ……』



「え? 」

「魔王がリンネちゃんの名前を言った? 」

 聴き間違いではない。

 上空からの一方的な攻撃だったにしろ、ほぼ無抵抗だった魔王。そして、最期の言葉。ヴァルムホルンの山頂で戦った時とは違い、理性が勝ったのか、人間性を感じさせるその言葉、いや、その聞き覚えのある懐かしい声に、ボクの心臓が鼓動を高める。


 スカイから飛び降り、最短距離を飛行魔法で闊歩する。

 そして、次第に黒い炎に戻っていく魔王に走り寄ると、ボクは無意識に叫んでいた。

「もしかして――もしかして、あなたは! 」

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