「お前ごときが魔王に勝てると思うな」とガチ勢に勇者パーティを追放されたので、王都で気ままに暮らしたい
100 リヴァーサル
「ははははははっ! あははははは……は……はぁ……いや、僕としたことが。久々に底辺を這いずるゴミを見たものだから、嬉しくて昂ぶってしまったよ」
ジーンはそう言って、メガネをくいっと持ち上げた。
その仕草すら、フラムにとっては不愉快だ。
「天才が天才であるには、君のような引き立て役が必要だ。僕が輝くために、ぜひよりみじめに苦しんで欲しいものだ」
「悪趣味なナルシストめ……!」
「自己愛を否定するから君はどこまでもゴミなんだよ。自分を愛せなければ、天才は生まれない。無論、僕のように才能がなければ、ただの愚か者で終わるけどね」
「自分に才能があると思い込んでるだけじゃない?」
「言葉を慎めよフラム。優しい僕が君を生かしてあげてるのがなぜわからない? やろうと思えば、この場で殺してやってもいいんだぞ?」
その程度の脅し、今さらフラムに通用するはずもなかった。
すると、そんな二人のやり取りを聞いていたネイガスが、
「ゲスが……」
と吐き捨てる。
しかし罵られたジーンは、むしろ楽しそうに口角を釣り上げ、彼女の牢の前に移動した。
「誰かと思えば、幼児趣味の魔族様じゃないか。一人だけみじめに生き残ったようだが、ご機嫌いかがかな?」
「セーラちゃんはまだ生きてるわッ!」
適当なことをほざいているだけで、彼もセーラの行方は知らない。
ただ、セレイドから二人で逃げ、ネイガスだけが捕まった――その事実を知るだけである。
「はははっ、幼児趣味は否定しないのか! さすが魔族様、悪趣味だな!」
「あんたにだけは言われたくないわね」
「僕は完璧だ。周囲から悪趣味に見えたとしたら、それは見た奴の目が腐っているだけだよ」
ネイガスは呆れて何も言えなかった。
彼は確かに天才かもしれない。
もっとも、それは“魔法使い”としてではなく、“自己愛”の天才という意味だが。
「無駄話もここまでにするか。僕も暇じゃないんでね、とっとと仕事を済ませよう」
言いながら、ジーンは再びフラムの前に戻る。
そして、自分をにらみつける彼女を見下し、目を細めた。
「何を、するつもり?」
答えはない。
彼は「チッ」と舌打ちすると、牢の中のフラムに向かって手をかざす。
さらに目を閉じ、手のひらに魔力を集中しはじめた。
よほど複雑な魔法なのか、ジーンにしては珍しく緊張した面持ちだ。
渦巻く魔力は四属性全て。
炎、水、風、土――単体ではできることはたかが知れている。
だが、全ての属性を混ぜ合わせ、組み合わせることができれば、操れぬ自然法則は存在しない。
それが、ジーンの考えだった。
「かき乱せ、ルーザー」
彼の放った魔法は、色とりどりのモザイクめいた粒子の集合体だ。
雲のように不定形で、ふわりふわりとフラムに近づいていく。
「殺すつもりなの……?」
「いいや、そんな無意味なことはしないさ」
近づいてくる粒子を、彼女は手で払おうとした。
だがするりとすり抜け、触れることすらできない。
やがてそれは彼女の頭部に触れると、皮膚と頭蓋骨を通り抜けて脳へと染み込んでいく。
「は……ぁ……!」
暖かな何かが自分の中に入り込んでくる気持ちの悪い感触。
視界の明滅、強烈な耳鳴り、平衡感覚の喪失――
「う、ぐ……うぇ……げ、ひゅ……っ!」
さらに吐き気を伴う頭痛が遅いくると、耐えきれずフラムは横たわる。
そして、頭を抱えてうめき声をあげた。
「フラムちゃんっ!? ジーン、あんたはっ!」
姿は見えないが、明らかに苦しんでいる。
心配で声をかけるネイガスだが、フラムには届かない。
「黙っていろ色ボケ魔族が」
ジーンはネイガスを冷たくあしらうと、真剣な表情で苦しむフラムを観察している。
「あー……ああぁぁっ、あー! あ! ああぁー! あぁぁぁあっ!」
フラムの意志に関係なく、意味のない声が出てしまう。
装備があれば耐えられたかもしれないが、例のごとく全て奪われている。
今のフラムは、ステータス0の状態だ。
「あっ、あぎゃあああぁぁっ! あがっ、がっ、がじゅっ、ひああぁぁああああ!」
視覚、聴覚をかき乱されると同時に、思考能力も低下していく。
触覚もめちゃくちゃで、座っているのか、倒れているのかもわからない。
あるいは浮いているのだろうか――むしろそれが一番近いかもしれない。
自分は今、どこでもないどこかで、頭を針で突き刺されながらもがき苦しんでいる。
それが最も、近い形容である。
「やめなさいジーン、もう彼女は十分苦しんできたじゃないっ!」
「まだだ、まだ足りないさ。何の役にも立たないゴミクズが、一時的とは言え僕と同じ英雄と言う舞台ででかい顔してたんだ。それなりの代償は払ってもらうさ」
「今までずっと引きこもってたやつが何を偉そうに!」
「色欲に支配された阿呆には僕の崇高なる考えなんてわからないだろう」
「あんたの薄っぺらな考えなんてわかってたまるもんですか!」
激しく言い争うネイガスとジーンだったが、その間もフラムは苦しみ続けていた。
もはや『なぜ自分が』と疑問を抱くことすらできずに、ただただ脳に苦痛を与えられ続ける。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、まるで粘土のようにこねられている気分だ。
口からは唾液と吐瀉物がこぼれ落ちる。
ここに来るまでほとんど食事を与えられていなかったのが幸いしたのか、固形物の量は少ない。
しかし胃の内容物全てを吐き出しても嘔吐感は消えず、声を上げながら空吐きを続けていた。
「ふん、くだばらないか、やはりしぶといな」
そう言い残すと、ジーンはあっさりと地下牢から去っていく。
「待ちなさい、ジーンッ!」
ネイガスは怒りの声をあげるも、彼が足を止めることはなかった。
フラムは気を失い、苦しみからは解放されたようだが――まさかそのためだけに、彼女の前に姿を現したと言うのだろうか。
「なんだったのよ、あいつは……最悪じゃない」
頭を抱え、壁に背中を預けるネイガス。
話し相手のいない彼女は黙り込み、地下牢には沈黙が満ちる。
◇◇◇
時計が無いため、どれだけ時間が経ったのかはわからなかった。
ネイガスの体感では五時間以上は過ぎているように感じられたが――その頃になって、ようやくフラムは目を覚ました。
少し頭が重いようだが、体に異変は無いらしい。
ジーンとのやり取りもしっかり覚えていて、記憶をいじくられたわけでもないようである。
それでも心配なネイガスは、何度もフラムに「大丈夫?」「無理はしちゃだめよ」と声をかけた。
そんなやり取りのさなか、再び階段を降りてくる足音が近づいてきた。
今度はディーザだ。
燕尾服に身を包んだ彼はフラムの牢の前に立つと、左手を腹に、右手を背中に当てて、丁寧に頭を下げた。
「ご機嫌はいかがでしょうか、フラム様」
「最悪」
「わたくしの顔を見たからでしょうか」
「それもあるし……」
ジーンのせいでもある。
あえて名前をあげずともディーザは把握しているだろうと思い、言わなかったが。
「十分な食事も用意できず申し訳ありませんでした」
彼の表情は実に悲しげで、『自慢の料理が振る舞えなくて残念です』とでも言いたそうだ。
裏切られる前と比べても違いがまったくなく、人の感情というものが信じられなくなりそうである。
「ディーザさん、シートゥムとツァイオンはどうなったの!?」
「ああネイガス、そういえば伝えておりませんでしたな。ツァイオンは現在も逃走中、シートゥム様ならわたくしの中です」
「中……?」
「つまり、死んだと思っていただいて結構です」
あまりにあっさり言い切るものだから、ネイガスは一瞬理解できなかった。
噛み砕いて、咀嚼して、飲み込んで、それでようやく言葉の意味を把握する。
「シートゥムが……死んだ」
そうなるだろうとは思っていた。
思っていたのだが――それでも、こうして事実を突きつけられると、やはりショックだった。
ツァイオンは生き残っているとはいえ、逃走中ということは、追われているという意味でもある。
キマイラたちに追跡されているのだとしたら、彼でも逃げ切るのは難しいだろう。
「悲しむことはありません」
「なんでよ……シートゥムが死んだのよ!? 私たちとずっと一緒にいて、家族同然に接してきたシートゥムがっ!」
「ええ、そうですね」
「そうですねじゃないわよ! あんたなにも感じないの!? 家族が死んで、涙の一つもこぼさないわけ!?」
「悲しくないと言えば嘘になりますが……これもオリジン様を復活させるため、要するに仕方のないことですからなあ」
彼は完全に、割り切っていた。
声からそれがわかる。
だが理解はしても、認めることはできない。
そんなもの、普通の魔族はもちろん、人間にだって理解できない感覚だったから。
「ディーザさん……あんただって、シートゥムの母親や、おばあちゃんのお世話になったんでしょう!?」
「ええ、拾っただけでなく、教育まで施してくださったこと、心から感謝しております」
「恩を仇で返すことに、何も思わないの?」
「仕方のないことですからな。わたくしはわたくしなりに、正しいことを成そうとしているまでです」
何を言っても話が通じないという点においては、彼もジーンとよく似ていた。
自己完結している。
一見してコミュニケーションは成立しているようにも見えるが、実際は違うのだろう。
彼は、彼の価値観でのみ動き、他者の価値観を許容しないのだ。
「それがオリジンを復活させることなの? そんなものはっ――」
「ネイガスさん、無駄です」
それでもなお噛み付こうとするネイガスを、フラムが止めた。
「この人は、何を言ったって変わりません。魔族と同じ形をした、違う生きものなんです」
その言葉に、ディーザは少し驚いた表情を浮かべた。
「ご明答です、フラム様。実はわたくし、魔族ではなく、魔族と人間のハーフなのです。よくわかられましたな」
「……違う、そんなことじゃない。どっちの血が混ざっていようと、そのどちらでもなくって……いびつで醜い化け物だって言ってるの」
「ひどい言われようですなあ」
彼は楽しそうに笑っている。
やはりフラムの言った通り、意思疎通は成立していないようである。
ネイガスもそれを理解し、それ以上ディーザに話しかけることはなかった。
「もう少し最後に歓談したかったのですが、それも叶わないようですね。それでは、そろそろ行くとしましょうか」
彼は懐から鍵を取り出すと、牢を開いた。
そして中のフラムに歩み寄り、別の鍵で拘束を解く。
「どこに行くの……?」
不安げに見上げるフラム。
ディーザはにこりと笑いながら行き先を告げた。
「オリジン様のもとへ」
◇◇◇
ディーザはフラムの前を歩き、魔王城の地下深くへと降りていく。
彼女を拘束するものは何もない。
今の状態では逃げることなどできないと、確信しているのだろう。
それはフラム自身もそうだった。
ステータス0の状態でそんな無謀なことはできない。
この先、どんなにおぞましい未来が待っているとしても。
「オリジン様は、この先におられます」
そう言って、彼は大きな扉の前で足を止めた。
「第一封印。本来は魔王様以外立ち入ることのできない場所ですが、例外としてわたくしだけは立ち入りが認められておりました」
そもそも、オリジンの封印を緩めることのできる人間など、シートゥムとディーザしか存在しない。
だがそのどちらも、魔族たちから絶大な信頼を得た人格者だった。
あるいはディーザならば、封印を緩めたのが彼だと気づかれても、信頼を失わないための“いいわけ”まで考えていたのかもしれない。
「ですがご安心を、今は解かれております。また、第一封印にはオリジン様の力を封じ込める力はございません。あくまで、悪意のある第三者の立ち入りを禁じるためのものです」
ディーザが手で押すと、扉はギィ――と音を立てながらあっさりと開いた。
その先には、全体が淡く緑色に照らされた、広い空間がある。
フラムは彼に促され、部屋に足を踏み入れた。
「ひっ……」
引きつった声をあげる。
ディーザが言うまでもなく、見た瞬間に、フラムはそれがオリジンの本体だと悟った。
そこは――円柱状の空間だ。
床は透明で、そこに緑色の魔法陣が浮かび上がっている。
部屋を照らす明かりの正体はこの陣だったらしい。
そして部屋は下に延々と伸びており、底が見えないほど深い。
つまり今、フラムたちの立つ場所こそが最上部であった。
だがそんなことはどうでもいい。
少なくとも、今のフラムの頭には入ってこない。
目の前にある――壁を埋め尽くす、無数の人体が異様すぎて。
それは昆虫標本のようでもあるし、首吊り死体のようでもある。
ぐったりと力を失った人間や魔族の肉体が、何か不思議な力で壁に貼り付けられているのだ。
それが空白もなく、びっしりと。
規則的に、整然として、天井から奈落に至るまで全ての壁を埋め尽くしている。
その脳と脳は、赤黒く汚れた、金属的なケーブルで繋がっていた。
それが、オリジン。
何千人、何万人という人間と人間の脳を接続し、螺旋を描き回路を形成し、無限のエネルギーを作り出す。
最初は数人だけだった回路も、新たな人間を接続し、同化させるうちに増え続け、ここまでの力を振るうに至った。
これが意志をもって世界を滅ぼそうとしているなど、にわかには信じがたいが、ずっと戦ってきたフラムにはわかる。
とても単純で、そのままだ。
だからこれこそが、紛れもなく――オリジンなのだ、と。
「緊張する必要はありません、フラム様はこれから楽になれるのですから」
ディーザはフラムの背中を押して、前へ前へと進ませる。
力のない彼女が抗えず、引きつった表情を浮かべながら壁に近づいていく。
「どうせ人間はみな死にます。そう考えると、むしろオリジン様の一部となった方が幸せだと、わたくしはそう思っております」
違う、そんなことはありえない。
そう言いたかったが、フラムは声を出すことすらできなかった。
そんな彼女の感情を読むように、脳内に直接声が響く。
『よおこそ』
『やっと会えたね』
『贖え』
『つながろう、一つになろう』
『愛しています』
『やっと届いた』
まるで無数の人格があるようにも聞こえるが、どれも同じ方向を向いている。
フラムを取り込むのだ――と。
『反転は怖いね』
『だが一つになればむしろ頼もしいな』
『仲良くするには少し時間が必要かもしれないわ』
『だけどそれが必要なことです』
『交わりましょう、交わりましょう、交わりましょう』
『解きほぐして、飲み込ませろ』
連続した言葉が、フラムの脳を埋め尽くす。
すると目の前にぶら下がる死体の接続が解除され、少し横にずれた。
空いたスペースは、ちょうど一人分だ。
「さあ」
背中を押すディーザ。
『さあ』
呼び寄せるオリジン。
「いやだ……」
拒むフラム。
そんな彼女の耳元で、ディーザは優しく囁く。
「ミルキット様が死んだのに、抗う必要などあるのですか?」
「あ……」
恐怖に隠されていた絶望を、引きずり出す。
再生される映像。
潰れた遺跡、もう戻らないミルキット。
好きな人。
あの子のためならどこまでも戦えると思っていた。
けれどあの子がいなければ、もう戦えない。
戦う必要なんてない。
なら、どうして――
『フラム・アプリコットという存在は無価値なのに』
『でもここには価値があるんだ』
『辛いなら一つになれば忘れられるわ』
『おいで、おいで』
『とても、気持ちいいよ』
ああ、それでも、嫌だ。
嫌に決まっている。
フラムはこのオリジンという存在の汚らしさをしっている。
平和を望んで世界を滅ぼすというが、そんなのは嘘だ。
結局は、エゴじゃないか。
自分がやりたいことを、自分がやりたいようにやっているだけ。
力を持った者は、往々にしてそういうことをやる。
聞こえのいい言葉を盾にして、自らの欲望を正しい物だと主張したがるのだ。
嫌いだ。
気持ち悪い。
近づきたくない。
けれど――心が拒んでも、フラムは無力であった。
「いやだ、私はっ!」
力さえあれば、こんなオリジンなんてぶっ壊してやるのに。
みんなを裏切ったディーザの顔をぶん殴ってボコボコにしてやるのに。
ついでにジーンも殴って、あの澄ました顔を滅茶苦茶にしてやりたい。
どうして、好き勝手に他人を傷つける人間ばかりが報われるのか。
罰を受けるべき人間が、高みに立って普通に生きてきた、生きていきたいと願った人間を虐げるのか。
間違っている。
間違っている。
彼らが正義であるものか。
彼らが勝者であっていいものか。
「もう手遅れなんですよ、フラム様」
葛藤など無駄、と言わんばかりにディーザはフラムの胸ぐらを掴む。
そして、その体を強引に壁に押し付けた。
「こんなの間違ってる! お前みたいな奴が笑って、みんなが傷つく結末なんて許すもんかッ!」
「力を持つものが報われる、それが世界の真理です。正しい結末なんですよ、これが」
両隣に並ぶ男女の頭部。
その皮膚を突き破って、金属のケーブルが姿を現す。
「そんなもの……っ!」
先端部がフラムに近づき、側頭部に密着した。
「あ」
カチッ。
フラムの頭に、そんな音が響いた。
それは皮膚を貫通したケーブルの接続部が、頭蓋をも抜け、脳に接続した証である。
つまり、この瞬間――フラムは、オリジンとの同化を果たしたのだ。
「あ……ぁ……っ……ぎっ……ぅ……」
同時に、頭の中に何かが大量に流れ込み、肉体と脳のリンクが断たれた。
もはや声を出すことも、指を動かすこともできない。
「おめでとうございます、フラム様、そしてオリジン様。これにて、長く辛い戦いの日々は終わりを迎えます」
パチパチパチ、とディーザは上品に拍手をした。
フラムの反転属性の力さえ取り込めれば、もはやオリジンに恐れるものはない。
完全なる神の手によって、完全なる平和がこの世界にもたらされるのだ。
無論、すぐさま取り込むというわけにはいかない。
まずはフラムの意識と肉体を同化させ、オリジンの一部とする。
その際、属性を司る部位のみは隔離しなければならない。
オリジンの始祖となったオリジン・ラーナーズを始めとした旧人類には、属性という概念が存在しない。
つまり旧人類と現人類の構造の差異を見つけ出せば、属性の隔離は容易であった。
「それでは、わたくしはキリル様を連れ参りますので、失礼いたします」
ディーザはそう言って頭を下げたが、返事はない。
フラムを手に入れ、浮かれているオリジンに彼のことを気にする余裕などなかった。
今はただ、一刻でも早く反転の力を手に入れて、完全な同化を乱す“死への恐怖”を無くしたい。
そして今度こそ、世界に平和をもたらすのだ。
「……」
うなだれ、沈黙するフラム。
開かれた眼は虚ろに、透明な床に浮かび上がる魔法陣を見つめている。
明滅する緑の光。
その眩しさに反応するように、彼女の喉が震える。
「……ぅ」
その半開きの口から、かすかな声が漏れた。
「ん?」
ディーザは足を止め、振り返る。
静まり返ったオリジンの中、何かが聞こえたような気がしたのだ。
だが、そんなはずがない。
一度同化してしまえば、その人間の肉体に意思が戻ることはないのだから。
残った肉体は、エネルギーを貯めるタンクであり、回路を繋ぐパスでもある。
しかし、それ以上の用途はない。
無論、動いたり、声を出したりすることもなかった。
再びフラムに背中を向けようとするディーザ。
「……ぁ」
その視界から彼女の姿が消える直前、彼は再びそれを聞いた。
そして同時に、指先がぴくりと動くのを目撃する。
幻聴だと思った。
だが、それが幻覚と同時となると、疑わないわけにはいかない。
「まさか、まだ人格が残っているとでも……」
確かにフラムは接続した。
そしてオリジンの一部となった。
それは、聞こえてくるオリジンの声からしても間違いないはずである。
ならばこの現象は何なのだ。
疑るディーザは、フラムにスキャンをかける。
--------------------
フラム・アプリコット
属性:反転
筋力:18674
魔力:17099
体力:18362
敏捷:17276
感覚:18337
--------------------
本来ならその視界には、オリジンの名と意味のない数字と文字の羅列が表示されるはずである。
「は……?」
常に冷静さを失わないディーザが、唖然としている。
やはり自分は幻覚を見ているのだろうか。
そう思いたかった。
フラム・アプリコットは、反転属性の副作用のせいで、ステータスが0だったはずだ。
それは装備をつけても同じこと。
彼女自身のステータスが変動したのは、シートゥムによってステータス下降の魔法がかけられたとき、一度だけ。
ならば今、彼の目の前で起きている現象は一体何なのか。
ディーザが戸惑っている間にも、数字は上昇を続ける。
--------------------
フラム・アプリコット
属性:反転
筋力:22411
魔力:22673
体力:22498
敏捷:22275
感覚:22813
--------------------
冗談のような速さで、笑えない数字まで駆け上がる。
幻覚であればどれほどよかったことか。
「なんだ、これは……」
戸惑い、加速する心音。
その感覚が、ディーザに夢でも幻でもないことを教えてくれる。
原因はわからない、だがマズいことが起きていることは確かだ。
「オ、オリジン様っ! 今すぐ接続の解除をぉッ!」
慌てて叫ぶディーザ。
しかし、その必要はないようである。
体の自由を取り戻したフラムは、自らの手でケーブルを掴むと、強引に引き剥がしたのだ。
そして、自分の前に立つディーザを睨みつける。
「くっ!」
向けられる強烈な殺意に危機感を覚えた彼は、すぐさま魔法を発動しようと手をかざした。
しかしそれは、過ちだ。
今のフラムにとって、この程度の距離など、ゼロに等しい。
魔法の発動準備を始めた、その瞬間――離れていたはずの彼女の拳は、すでに目の前にあった。
『このようなこと、あるはずがない』
そんなディーザの思いが、言葉になることはない。
「へぶっ!?」
全力で叩き込んだその拳は、彼の顔面のど真ん中に突き刺さった。
鼻がへし折れ、陥没し、いかなるときも崩れることのない顔が、強引に、力づくで破壊されていく。
その反則的な威力は、命中と同時にゴオォッ! と周囲の空気を震わせるほどであった。
肉体がその場で粉々にならずに済んだのは、オリジンの力のおかげだろう。
だがその力があってもなお、フラムの全力の一撃を受け止めることはできない。
「がっは!?」
ディーザの体は吹き飛び、壁に叩きつけられる。
その衝撃でオリジンの一部が吹き飛び、むき出しになった石の壁がクレーターのように凹んだ。
「はぁ……はぁ……」
拳を振り切ったフラムは、肩で呼吸をしながら、自分の拳を見つめている。
「はぁ……私は……っ」
ディーザをぶん殴った、その拳の感触を確かめている。
「まだ……生きてる……!」
そして、自らの命がまだここにあることを、確信した。
オリジンによる精神の汚染もなく、紛れもない“フラム・アプリコット”として。
「そんな、馬鹿……な」
一方で、壁に磔にされたディーザは、陥没し、折れた鼻から血を流しながら、予想外の事態に困惑していた。
なぜ接続したはずのフラムが生きているのか。
なぜ接続したはずのフラムにあのような力が宿っているのか。
理由がまったくわからない。
オリジンは、反転への対策を万全に整えていたはずだというのに。
頭部へのダメージのせいか、原因を考えようにも思考がうまくまとまらない。
ただ一つ、はっきりとしているのは――
--------------------
フラム・アプリコット
属性:反転
筋力:28547
魔力:28319
体力:28991
敏捷:27046
感覚:27643
--------------------
――揺らぐ意識の中、霞む視界で彼が見た、悪夢のような数字の羅列だけだった。
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