鮫島くんのおっぱい

とびらの

梨太君の帰還

 西へ向かう新幹線で三十分。
 在来に乗り換え四十分ほど、梨太は一人、のんびりと電車に揺られた。

 夏休みただ中で混雑していたが、ちょうど空いた席に座ることができた。自身が降りる一つ手前の駅で、旅行へ行くらしい、大荷物の少女が途方に暮れているのを発見。ここぞとばかりに席を譲る。
 ついでに、ご旅行ですかなどと会話をすこしだけ。それ以上つっこんだことは聞かない。彼女がここで乗り込むということは、またこの列車をたびたび使う生活圏にある可能性は高いのだ。

 今度あったら、土産話を聞いてみよう。
 そんなことを楽しく考えながら、かつて使い慣れた小さな駅に降りた。


 ――ドアが開きます、ご注意ください。霞ヶ丘――霞ヶ丘です。


 独特の節で歌う車内アナウンスを背中に、愛想の悪い売店で新聞を買う。

 店員は、ふと梨太の顔を見て一度視線を止めた。

「あんた……昔このへん住んでなかった?」

 梨太は適当に笑って流した。


「うはあ、あっついなあー」

 がらがらとトランクを引き、だらだらとアスファルトを歩く。
 灼熱の日差しと茹だるような湿度のなか、梨太は顎の下を手で拭った。

 霞ヶ丘駅から、梨太の家まで徒歩十五分。タクシーを使うには近すぎるが、歩くとなるとつらい。時刻はすでに正午を回り、太陽はいよいよ真上から梨太の頭上を照りつけていた。

 大通りから閑静な住宅地にはいり、一本裏の道へ曲がって、ようやっと、黄色い屋根が見えてくる。

 こぢんまりとしたかわいらしい一軒家、申し訳程度の前庭と、背丈より低い門扉。表札には栗林の名字をもつ三人家族の名前がかかれている。
 半年ぶりの我が家だった。

(……なんだか、妙に懐かしい気がするもんだなあ)

「ただいま」

 誰も迎える物のない門扉にむかってつぶやく。そしてもう一度汗を拭って。リタはトランクを立て直した。

 と――

 ぶぶぶっ――!

 虫が激しく羽ばたくような音。それは全くの唐突に、梨太の引くトランクの中から聞こえてきた。

「えっ!?」

 思わず大きな声を上げる。

 慌てて外側から耳をくっつけた。ぶぶぶぶぶ――確かに、中で何か小さなものが暴れている。携帯電話はジーンズのポケットにちゃんとあった。となると、今なっているのは――

「くじらくんっ!?」

 あわてて、その場でトランクを開く。中身が溢れだし、自宅門の前、道路にぶちまけられた。梨太はかまうことなく、くじらくんことあの小さな、消しゴムほどの大きさのシルバーメタルの機械を探す。

 その背中に、なにか冷たいものが走った。反射的に振り返る。


 そこに、異形があった。


 ――犬、である。
 少なくともそれに近い生き物に、梨太には見える。

 肩の高さは、梨太の膝上くらいだろう。脂を塗ったようにやけに艶やかな黒い体毛。ピンと立った三角形の耳。そのシルエットと、円柱型に張り出した鼻先に大きな口などはすべて梨太の知る一般的な短毛中型犬のそれだった。

 『犬』の首に、首輪のようなものはない。
 近代日本、町中でノラ犬を見ることは滅多にない。この大きさに目立つ容貌で、保健所の手を逃れ続けてきたとは思えなかった。近所のペットが逃げ出したのだろうか。

 いやそれにしても――

(……赤い目の犬種なんていたっけ?)

 とりあえずわかりやすいところに疑問を抱く。

(……それに、あのやけにテラテラした毛質。脂? 背中が灰色とトラ柄になってる)
(こころなしか、なんか骨格もいかついし)
(尻尾が、猫みたい……けど、やたらと太い――)

「ていうか」

 梨太の背中を冷たい汗が伝う。

「二足歩行……?」


 閑静な住宅地に、赤い瞳をもつ、二足歩行の野良犬。

 もしかしたら、それはさほど珍しいものではないのかもしれない。
 地元とはいえ、半年ぶりに訪れた町である。
 梨太の知らない間に、常識が変わったのかもしれない。
 流行ってるのかもしれない。
 マグカップ・トイプードルなんて玩具としか思えないものが実在するのだから、こいつなどむしろ犬らしい犬というべきだろう。

 梨太はためしに身をかがめ、手を差し出して――

「おいで、パブロフ」

 梨太の声に、『犬』の耳がピクリと動く。

 瞬間。

 ――ごぉおおおおおおう!

 風圧を感じるほどの声は、『犬』の喉から発せられた。
 びりびりと肌が震えるなか、梨太は悲鳴じみた声で叫び返す。

「な、なんだよぅっシュレディンガーよりだいぶマシだろ、そんなに僕の名づけが気に入らないなら自分で名乗れよ!」

 よもや本当にその名が気に入らなかったわけではあるまいが。
 『犬』は頑健な脚で地面をけると、オウと大きく吠えながら、梨太に向かって跳躍した!

「うえっ!?」

 梨太は叫びながら、その襲撃をなんとかかわした――いや、驚いて尻餅をついたおかげですんでのところで『犬』の鼻先が逸れた。パニックを押さえ込み、すぐに身を起こして距離をとる。

 『犬』は驚異的な跳躍距離を経て着地すると、四肢を地につけうなり声をあげていた。

「な、なにっ……? なんで?」

 『犬』の裂けた口からヨダレが落ちている。空腹なのだろうか。

 梨太はふと、オオカミはそれほど大きな体躯ではないことを思い出した。それでもヒトは食われている。

 ファンタジーはもちろん。創作の世界では、熊や虎、竜ですら、格闘技で倒されて当たり前。しかし現実的な話、ひとが素手で勝てる野生の獣は中型犬サイズが限界と聞いたことがあった。
 知恵や武器により人間は自然界の頂点にいるものの、生まれ持った腕力だけで対戦すれば、獣というのはそれほどに強い。

 『犬』の体躯はまさに中型犬程度。そして梨太は、男子平均よりもちょっとばかり、小柄であった。

「……もしかして僕、捕食の危機?」

 梨太はゆっくりと後退しながら、『犬』に背を向けないようにあたりを見渡した。緊張を心地よい集中力に変えて、冷静に、思考を巡らせていく。
 脳内で、記憶の片隅にあるイヌの図鑑を引っ張り出し、高速でページをめくっていった。

(……屹立していたイメージを引きずるな。あれはただの威嚇で、常時二足歩行しているわけじゃない。イヌ科の狩り方法はシンプルだ。熊やネコ科動物ほど柔軟性はなく不器用で、ゆえに前足をサイドから挟み込むようにして掴まれることはない。抱きついたりしないで、大口を開けて、首元めがけて突進してくる、はず、たぶん)

(直線攻撃を跳ね返す、その防御だけできれば――)

 梨太は盾になりそうなものを探した。乱暴な空港職員の暴力的整頓に耐えうるスーツケースで身を隠す。そして視線を巡らせた。

 獣は強い。だけど人類は知恵により、石器時代からマンモスだって捕食してきたのだ。その戦法に則れば負けるはずがない。落とし穴に、人海戦術、そして硬くて重くて鋭い物があれば――

 梨太はあたりを見渡した。閑静な住宅地。人通りはない。武器になりそうなものも――なにもない!

 ゴォウ!

 『犬』が吠える。力をためた後ろ足が再び地を蹴って、梨太へ向かって――

「わああああっ!」

 野生の脅威に、梨太は目を閉じた。

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