鮫島くんのおっぱい
梨太君の冷やし鴨南蛮うどん
栗林家、午後七時。
夕食の支度に立つと、鮫島も後ろについてきた。手伝う意志でもあるのかしらと、白ネギを渡してみる。彼はそれをじっと見下ろし、不意に口を開けてかじろうとしたので奪還した。
梨太は手早く包丁を滑らせて、ネギの根元を落とし、二センチ程度にそろえて切っていく。
「鴨肉がねえ、あんまりたくさんは売ってなくて。炎天下歩き回って買い出すのもつらいし季節がら鍋てのもどうかと思うので、ちゅるっといきますよ」
半冷凍の鴨胸肉塊をそぎぎりにしていくのを、鮫島が腰を曲げてのぞき込んでいた。意味の分からない日本語を確認してくる。
「ちゅる?」
ひとつめが、それだった。
「そ、ちゅるっと啜って食べる、冷やし鴨南蛮うどん」
「ひやしかもなんばんうどん」
「そうそう」
「美味しい?」
「がんばって美味しく作るよ」
適当に相手をしながら、手鍋にネギと鴨肉を並べ、油でじっくりと焼き目をつけた。いったん皿に取り出して、同じ鍋で付けツユを作っていく。
「こういうところでスパっと潔くインスタントを使う僕」
市販のめんつゆに砂糖を足して適当に煮詰め、焼けたネギと鴨を投入。ぐつぐつ煮込み、アクを二度ほど取っておく。
鮫島がぼーっと立っている前を忙しなく往復し、やがて乾物の細麺うどんが茹であがった。そうして出来上がった食卓に鮫島を招くと、彼は音もなくイスを引き、梨太をまねて、箸を持つ。
「はい食べましょー。うどん足りなかったらすぐ茹でるから言ってね」
「うん……」
「いただきまーす」
すぐに大皿へ箸を延ばそうとして、梨太はふと、手を止めた。
鮫島が無言で目を閉じている。窺うように声をかけた。
「途中でごめん、あのさ、それってお祈りだよね?」
鮫島は目を開けた。
「ラトキアの習慣だな。日本では不審がられるから心の中だけで」
「あ、やっぱりほんとは口に出すんだ? いいよ、僕しかいないんだし。なんなら僕も一緒にやるよ」
「そうか。じゃあ」
鮫島は改めて目を閉じると、控えめながらもはっきりした発声で、その言葉を唱えた。
「なんてうれしいことでしょう。いま私が大切な人とともに食事をとれること。そしてこの食事と時間を作ってくれたあなたに、私は心からお礼を伝えます。ありがとう……」
十秒ほどで終えた言葉。それは梨太が予想していたような、神への祈りなどではなかった。
絶句してしまった梨太に、鮫島は顔を上げて、
「あ、これは支度をしたひとは言わなくていいんだ」
「……そ、そうだね」
「いただきます」
今度は日本式に挨拶すると、この料理の食べ方を尋ねてきた。あわてて「つけめん」の概念を説明し、先にやって見せる。
そして鮫島がおっかなびっくりうどんをすすり、想定以上の量を口に入れてしまったのを目撃した。頬を膨らませたまま視線を泳がせ、口を指先で隠しながらもぐもぐ頑張って、ようやっと飲み下す。
ホウと安堵してから、すぐにアッと声を出した。
「味を忘れた」
二口目を取りに箸を延ばす。
梨太は危うく吹き出しかけ、箸を握ってぶるぶる震えた。
鮫島はそれに気づかずに二口目。今度こそ表情を明るくした。
「おおっ。これは、ものすごく美味しい」
遠慮なくどんどん取って食べてくれる彼。
その姿を、これ以上なく幸せな気持ちでいつまでも見ていられる。
三年たっても彼の所作はなにも変わらない。気の利いたコメントを言うわけでもなく、可能な限り小さな食事音で、しかしこれ以上なく美味そうに食べるのだ。深海色の瞳がキラキラ輝いていた。
「鮫島くん、相変わらず、食べ方かわいいよね」
不意に梨太がそういうと、彼は首をかしげた。そういった自覚は無いらしい。
口の中のものを飲み下してから、
「普通だ。犬居には、指摘されたことはない。そもそも他人と食べる機会がめったにないけど」
「ふうん。休みの日は?」
「……外に出ない」
「鮫島くんって友達いないの」
瞬間、彼は箸を取り落とした。すぐに無言で拾い、食事を再開する。回答はなかった。梨太は胸中でなるほどと頷いて、自分も食事を再開した。
(……まあ、しょうがないか……)
梨太はひそかに納得した。
誉れあるラトキア騎士団、その騎士団長。英雄――彼は周りにはいつも多くの人がいて、囲まれ、もてはやされて――そして誰も、そのそばに腰かけることはない。
鮫島が、仕事には弁が立つのに雑談が苦手というのも理解できる。
彼は、その経験をしてこなかったのだ。
友人と並んで腰かけて、何の意味もない笑い話で、無駄な時間を過ごすという経験が。
梨太はうどんをもぐもぐ噛みながら、しばらく思考を重ねた。フローチャートを並立し、分岐先に分岐をつくり膨大な枝葉からなる大木を樹立していく。
あれを言って、促して、こう返されたらこう受けよう。
脳内ひとりロールプレイングをすることたっぷり三分。梨太は鮫島に質問を振った。
「――三年前の顛末、僕、よくわかってないんだけどさ。あのあとみんなどうなったの?」
それは、鮫島がもっとも答えやすく、そして雑談へ展開しやすい質問であった。
夕食の支度に立つと、鮫島も後ろについてきた。手伝う意志でもあるのかしらと、白ネギを渡してみる。彼はそれをじっと見下ろし、不意に口を開けてかじろうとしたので奪還した。
梨太は手早く包丁を滑らせて、ネギの根元を落とし、二センチ程度にそろえて切っていく。
「鴨肉がねえ、あんまりたくさんは売ってなくて。炎天下歩き回って買い出すのもつらいし季節がら鍋てのもどうかと思うので、ちゅるっといきますよ」
半冷凍の鴨胸肉塊をそぎぎりにしていくのを、鮫島が腰を曲げてのぞき込んでいた。意味の分からない日本語を確認してくる。
「ちゅる?」
ひとつめが、それだった。
「そ、ちゅるっと啜って食べる、冷やし鴨南蛮うどん」
「ひやしかもなんばんうどん」
「そうそう」
「美味しい?」
「がんばって美味しく作るよ」
適当に相手をしながら、手鍋にネギと鴨肉を並べ、油でじっくりと焼き目をつけた。いったん皿に取り出して、同じ鍋で付けツユを作っていく。
「こういうところでスパっと潔くインスタントを使う僕」
市販のめんつゆに砂糖を足して適当に煮詰め、焼けたネギと鴨を投入。ぐつぐつ煮込み、アクを二度ほど取っておく。
鮫島がぼーっと立っている前を忙しなく往復し、やがて乾物の細麺うどんが茹であがった。そうして出来上がった食卓に鮫島を招くと、彼は音もなくイスを引き、梨太をまねて、箸を持つ。
「はい食べましょー。うどん足りなかったらすぐ茹でるから言ってね」
「うん……」
「いただきまーす」
すぐに大皿へ箸を延ばそうとして、梨太はふと、手を止めた。
鮫島が無言で目を閉じている。窺うように声をかけた。
「途中でごめん、あのさ、それってお祈りだよね?」
鮫島は目を開けた。
「ラトキアの習慣だな。日本では不審がられるから心の中だけで」
「あ、やっぱりほんとは口に出すんだ? いいよ、僕しかいないんだし。なんなら僕も一緒にやるよ」
「そうか。じゃあ」
鮫島は改めて目を閉じると、控えめながらもはっきりした発声で、その言葉を唱えた。
「なんてうれしいことでしょう。いま私が大切な人とともに食事をとれること。そしてこの食事と時間を作ってくれたあなたに、私は心からお礼を伝えます。ありがとう……」
十秒ほどで終えた言葉。それは梨太が予想していたような、神への祈りなどではなかった。
絶句してしまった梨太に、鮫島は顔を上げて、
「あ、これは支度をしたひとは言わなくていいんだ」
「……そ、そうだね」
「いただきます」
今度は日本式に挨拶すると、この料理の食べ方を尋ねてきた。あわてて「つけめん」の概念を説明し、先にやって見せる。
そして鮫島がおっかなびっくりうどんをすすり、想定以上の量を口に入れてしまったのを目撃した。頬を膨らませたまま視線を泳がせ、口を指先で隠しながらもぐもぐ頑張って、ようやっと飲み下す。
ホウと安堵してから、すぐにアッと声を出した。
「味を忘れた」
二口目を取りに箸を延ばす。
梨太は危うく吹き出しかけ、箸を握ってぶるぶる震えた。
鮫島はそれに気づかずに二口目。今度こそ表情を明るくした。
「おおっ。これは、ものすごく美味しい」
遠慮なくどんどん取って食べてくれる彼。
その姿を、これ以上なく幸せな気持ちでいつまでも見ていられる。
三年たっても彼の所作はなにも変わらない。気の利いたコメントを言うわけでもなく、可能な限り小さな食事音で、しかしこれ以上なく美味そうに食べるのだ。深海色の瞳がキラキラ輝いていた。
「鮫島くん、相変わらず、食べ方かわいいよね」
不意に梨太がそういうと、彼は首をかしげた。そういった自覚は無いらしい。
口の中のものを飲み下してから、
「普通だ。犬居には、指摘されたことはない。そもそも他人と食べる機会がめったにないけど」
「ふうん。休みの日は?」
「……外に出ない」
「鮫島くんって友達いないの」
瞬間、彼は箸を取り落とした。すぐに無言で拾い、食事を再開する。回答はなかった。梨太は胸中でなるほどと頷いて、自分も食事を再開した。
(……まあ、しょうがないか……)
梨太はひそかに納得した。
誉れあるラトキア騎士団、その騎士団長。英雄――彼は周りにはいつも多くの人がいて、囲まれ、もてはやされて――そして誰も、そのそばに腰かけることはない。
鮫島が、仕事には弁が立つのに雑談が苦手というのも理解できる。
彼は、その経験をしてこなかったのだ。
友人と並んで腰かけて、何の意味もない笑い話で、無駄な時間を過ごすという経験が。
梨太はうどんをもぐもぐ噛みながら、しばらく思考を重ねた。フローチャートを並立し、分岐先に分岐をつくり膨大な枝葉からなる大木を樹立していく。
あれを言って、促して、こう返されたらこう受けよう。
脳内ひとりロールプレイングをすることたっぷり三分。梨太は鮫島に質問を振った。
「――三年前の顛末、僕、よくわかってないんだけどさ。あのあとみんなどうなったの?」
それは、鮫島がもっとも答えやすく、そして雑談へ展開しやすい質問であった。
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