鮫島くんのおっぱい
鮫島くんが遊んでいる図②
雀の声で目を覚まし、梨太はベッドの上でゆっくりと深呼吸をした。
わりあい、寝起きの良い方である。しかし今朝はなにやら腹のすわりが悪い。
天井を見上げて、起き抜けから自分が不機嫌である理由を、昨夜の顛末とともに思い出し、
「あーあ……」
低い声で嘆息。
「どうにも……うまくいかないなあ」
「なんだ、それ?」
柔らかな声はすぐ耳元で聞こえた。
「へ?」
訝って、身を起こす。
あたりを見渡す。見慣れた寝室、ベッドの上である。腰から下は厚手で大判のタオルケットが被さっていた。その布を共有して、ちょうど同じように、全身をベッドに横たえた鮫島がそこにいた。
「うおわっ!」
のけぞった拍子に壁で後頭部を強打する。
鮫島は梨太より先に目を覚まし、のんびり寝転がっていただけらしい。すぐに半身を起こすと、両手広げて背伸びする。
といっても、狭い一人用のベッドである。梨太に当たりそうになり、鮫島はすぐに伸びをやめ、ふにゃっと眠たそうな顔をした。若干寝癖のついた黒髪を適当になでつける。
梨太は呆然とそれを眺めながら、事態を把握できず口をぱくぱくさせた。
「なっなっ――なんで鮫島くん一緒にベッドにっ――いつからここに? 僕、あれっ? もう、した!?」
「なにを?」
鮫島は小首を傾げた。揺れた髪の隙間からのぞく耳たぶに、翡翠色のピアスが無い。どうやら普段から眠るときは外しているらしい。
梨太はとりあえず彼がわかりそうな言葉を並べて、鮫島くんの寝床は下の布団であること、別にベッドを使ってもいいけど二人で一緒に入ることはふつうではないことをまくし立てる。
彼は、一通り聞いてから、反対側へ首を傾けた。
「ふとん。べっど。ねどこ……」
「あ――ああっ? もしかして翻訳機では全部ひとつの単語で理解されちゃってるのか!?」
鮫島はベッドから降り、荷物からピアスを取り出した。装着すると、理路整然と説明してくれる。
「昨日、ここへ来た時に行き違いのように呼び出しが入っていてな。結局すぐに招集された。戦闘を終えたのが深夜だったので、静かに入って風呂を借りた。事後承諾で申し訳ないけど」
「い、いやそれはべつにはい」
「それから眠いので寝た」
絶句。彼はそのまま、布団のほうを指さして、
「……この、床に置かれているものも、ベッドだったのか。ラグマットの一種かと思った」
「あー……」
いろんなものを理解して頭を抱える。確かに、あまりに当たり前すぎて説明などしていなかった。
しかし、それにしてもおかしくないかと思いなおす。
布団が寝具だと理解できなくても、先客のいる狭いベッドよりは床の柔らかそうな布に寝そべりそうなものだ。梨太ならば、一階リビングのソファを拝借するところである。
しかしそれは日本人の感覚かもしれない。完全なるベッドの文化圏ならば、とかくベッドでないと眠れないのかもしれない。
いや、鮫島は、軍人だ。野営もあれば、他国の民族と交わることもあるだろう。そのなかで「床で眠る」という文化に触れる機会がないとは思えなかった。
くるりくるりと逆転を重ねる思考。梨太は結局、本人に率直に尋ねてみた。
「そんなに床の布団で寝るのって抵抗ある?」
「ん? いや。寝具なのかなとも考えたけど、この間、朝起きたらおまえがこうしていたから」
その返事に、梨太は再び絶句した。
鮫島は部屋の中央で再び大きく伸びをしながら、
「客人と寝具を共用する文化は珍しくないぞ。日本は、違ったのか。ならややこしいことをするな。こっちはよくわからないんだから。あの時も床へ行けといってくれればよかったのに、なんで俺を起こさなかったんだ?」
「ええええ。どの面ぁ……?」
呆然とつぶやく梨太に背を向け、コキリと首を傾ける鮫島。
「……リタの体を抱いて眠るのは気持ちがいいな」
顎が、地面まで落ちる――
そのせいで返事もできない間に、彼は反対側に首を傾けた。つれない口調で続ける。
「しかし寝返りが打てないのがつらい。やはり今度からはこっちの『おふとん』で寝ることにしよう」
そんなことを言って、部屋を出ていってしまった。
梨太はあわてて、彼の背中に向かって手を伸ばし、
「あのっ、ちょっと待っ――」
追いかけようとしたところで、扉が閉まる。
梨太はその場に座り込んだ。
「……っう、ぉあああああ」
そんな、声にならない声を漏らした。
朝食にトーストを焼き、塩気を強めたスープを添える。
「黄色い」
のぞき込んだ鮫島が変なコメントをした。
コンソメベースに冷凍粒コーンを投入し、強く沸騰させながら、溶き卵を細く回して流し込む。沸騰の水流で踊るように卵が固まり、火を止めた鍋のなかでふんわりと広がっていく。
「花みたいだ」
可愛らしい言い回しに梨太は笑った。
カップにスープを移しながら、
「いいセンスだね。その名もずばり、黄花湯というんだよ」
ほめられて、鮫島はとてもうれしそうな顔をした。
食卓につき、トーストを一口かじったところで、梨太の携帯電話がアラームをならす。
ちょっと失礼、と断って、スマホの画面を確認する。ポップなアイコンで緊急を告げるメッセージだった。梨太はアイスティで口の中のものを飲み下すと、席を外した。
リビングソファのほうへ離れ、通信を開始する。
画面の中に、黒檀色の肌を持つ男の姿が映し出された。カメラに向かって手をぶらぶらさせ、流暢な日本語が飛び出した。
「ようリタ、元気してる? 飯食ったか? うんこは出たか?」
梨太は苦笑。
「バンズ、こっちはまさに朝食中。挨拶の言葉は選んで」
彼の母国語で回答すると、彼は素直に謝った。オーバーアクションでのけぞって、しかしすぐに本題に入る。
「こっちで集めた資料、片っ端から送っといたぜ。PCの方へ送ったら目を通しといてくれ」
「ありがとう、すぐに確認して返答をだすよ」
「あのナレーションの原稿はリタが書いたのか?」
「うん、読み上げはウェブ企業のナレーションに発注した」
「微妙に動画と長さがずれていたぶん、編集しといた。万が一日本語が破綻していたらすぐに戻すので言ってくれ」
「ああそう。そうだね、撮り直してもらう時間も予算もないもんねえ。ホントにいざとなったら僕の声でやるけど」
「それはやめとけリタ、お前、日本語だとたまに訛るだろ」
「あはは。しょうがないっしょ、生まれてから十四年住んでたとこのだもの。第二外国語のほうが入り口が教科書だから綺麗なんべさ」
梨太の言葉に、バンズは首をかしげた。彼は日本語の聞き取りにまだ未熟であった。
彼らは日本に来たこともなく、ほとんど教材だけで語学習得してきている。難しい単語は習得しても、地方訛りを混ぜると急に通じなくなってしまうのだ。
「……さて、いよいよ来週だな。俺は直接参加はできないが、遠いここからエールを送るぜ。がんばれリタ。愛してるよ」
「ありがとう、僕も愛してるよバンズ」
男二人、腹を抱えて笑う。
ふと、そのバンズが表情を変えた。太い指をこちらへ向けて、ワーオを大きな声を出す。
「オーゴッド、なんと美しい! ハローこんにちはグッモーニン」
振り向くと、すぐ後ろに、鮫島がいた。
ソファの背もたれから身を乗り出し、バンズに応えて手を振ってみせる。陽気な男は意味のない踊りを織り交ぜたジェスチャーで自己紹介した。
「リタ、モデルまで雇ったのか? そりゃいいけど、なんでお前の家で朝食をとってるんだ。詳しく聞かせてもらおうじゃないか」
「違う違う、彼――彼女は友達だよ。仕事でこっちへ来ていて、ホームステイみたいにうちへ泊まっているだけさ」
「はー? 何をいろんな意味でもったいない、おまえらしくないじゃないか。すばらしい、ちょうどいい。彼女にキャンペーンガールやってもらえないのか? それだけ美人ならいるだけで目をひくぜ」
梨太はぎょっとして、あわてて手を振った。
「ダメだよ、彼女も仕事があるんだから。これは僕の自分の仕事」
バンズもそれほど本気で言っていたわけではない。下世話なからかいの言葉を梨太に投げ、ごく短い時間談笑して、通信は切られた。
とりあえず朝食を再開しようと、ダイニングのほうへ戻る。そして、鮫島の食事もまだ途中だったことに驚いた。てっきりマイペースに食べ終えていると思っていたのだが。
梨太が席に戻ると、彼も正面につき、再開する。
少し冷めた、スープの卵をスプーンでつつく。黄色い花が水面でゆらゆら動くのを、鮫島は幸せそうにじっと見つめていた。
そうして彼がのんびりしている間に、梨太は自分の食事を手早くすませた。ごちそうさまと手を合わせ、すぐに立ち上がる。
食器を片づけながら、
「ごめん、僕やることあるから。鮫島くんゆっくり食べてて」
そう言い捨てて、カウンターデスクのノートパソコンを開く。デスクトップからメールボックス、添付データを解凍している間に飲み物を入れ、座り直す。
鮫島に背を向けて、梨太はそのまま作業を始めた。
背もたれのない椅子に座り、前かがみ気味に、画面へ向かう、十九歳の少年。
椅子の高さは彼が今より十五センチ背が低かった頃から変えていない。若干居心地悪そうに、それでも、栗色の後頭部は微動だにすらせず集中している。
カタカタと無機質なタイプ音に、時々ペンタブレットを操作する擦過音。
鮫島は黙って食事を終えると、物音一つたてずにそれをシンクへと片づけた。ダイニングのほうへ戻って、座る。
梨太が一度、トイレに立った。その間に彼は皿を洗い、梨太が戻って作業を再開する頃、また黙って席に着いた。
そうして彼らは、そのまま四時間の時を過ごす。
梨太が二度目のトイレと、グラスにおかわりを注ぎに冷蔵庫へ向かったとき、ふと鮫島が声を漏らした。聞こえなかったらそれで構わない、というくらいの声量でぼそりと。
「リタ。お昼ご飯……」
言われて、梨太は壁掛け時計を見上げた。正午を少し回っていた。
「ああ……そうだね。ひと段落したら作るよ」
そう言って、彼はまたデスクへと戻った。
鮫島はテーブルから、その背中をまたじっと見つめて、そこに居た。
そのまま一時間――彼は、旅の鞄から、スケッチブックを取り出した。
梨太がタイピングをする音と、柔らかな鉛筆が画用紙を撫でる音。そして二人の呼吸の音だけがある空間で、彼らはそのまま同じ時間を過ごし続けた。
わりあい、寝起きの良い方である。しかし今朝はなにやら腹のすわりが悪い。
天井を見上げて、起き抜けから自分が不機嫌である理由を、昨夜の顛末とともに思い出し、
「あーあ……」
低い声で嘆息。
「どうにも……うまくいかないなあ」
「なんだ、それ?」
柔らかな声はすぐ耳元で聞こえた。
「へ?」
訝って、身を起こす。
あたりを見渡す。見慣れた寝室、ベッドの上である。腰から下は厚手で大判のタオルケットが被さっていた。その布を共有して、ちょうど同じように、全身をベッドに横たえた鮫島がそこにいた。
「うおわっ!」
のけぞった拍子に壁で後頭部を強打する。
鮫島は梨太より先に目を覚まし、のんびり寝転がっていただけらしい。すぐに半身を起こすと、両手広げて背伸びする。
といっても、狭い一人用のベッドである。梨太に当たりそうになり、鮫島はすぐに伸びをやめ、ふにゃっと眠たそうな顔をした。若干寝癖のついた黒髪を適当になでつける。
梨太は呆然とそれを眺めながら、事態を把握できず口をぱくぱくさせた。
「なっなっ――なんで鮫島くん一緒にベッドにっ――いつからここに? 僕、あれっ? もう、した!?」
「なにを?」
鮫島は小首を傾げた。揺れた髪の隙間からのぞく耳たぶに、翡翠色のピアスが無い。どうやら普段から眠るときは外しているらしい。
梨太はとりあえず彼がわかりそうな言葉を並べて、鮫島くんの寝床は下の布団であること、別にベッドを使ってもいいけど二人で一緒に入ることはふつうではないことをまくし立てる。
彼は、一通り聞いてから、反対側へ首を傾けた。
「ふとん。べっど。ねどこ……」
「あ――ああっ? もしかして翻訳機では全部ひとつの単語で理解されちゃってるのか!?」
鮫島はベッドから降り、荷物からピアスを取り出した。装着すると、理路整然と説明してくれる。
「昨日、ここへ来た時に行き違いのように呼び出しが入っていてな。結局すぐに招集された。戦闘を終えたのが深夜だったので、静かに入って風呂を借りた。事後承諾で申し訳ないけど」
「い、いやそれはべつにはい」
「それから眠いので寝た」
絶句。彼はそのまま、布団のほうを指さして、
「……この、床に置かれているものも、ベッドだったのか。ラグマットの一種かと思った」
「あー……」
いろんなものを理解して頭を抱える。確かに、あまりに当たり前すぎて説明などしていなかった。
しかし、それにしてもおかしくないかと思いなおす。
布団が寝具だと理解できなくても、先客のいる狭いベッドよりは床の柔らかそうな布に寝そべりそうなものだ。梨太ならば、一階リビングのソファを拝借するところである。
しかしそれは日本人の感覚かもしれない。完全なるベッドの文化圏ならば、とかくベッドでないと眠れないのかもしれない。
いや、鮫島は、軍人だ。野営もあれば、他国の民族と交わることもあるだろう。そのなかで「床で眠る」という文化に触れる機会がないとは思えなかった。
くるりくるりと逆転を重ねる思考。梨太は結局、本人に率直に尋ねてみた。
「そんなに床の布団で寝るのって抵抗ある?」
「ん? いや。寝具なのかなとも考えたけど、この間、朝起きたらおまえがこうしていたから」
その返事に、梨太は再び絶句した。
鮫島は部屋の中央で再び大きく伸びをしながら、
「客人と寝具を共用する文化は珍しくないぞ。日本は、違ったのか。ならややこしいことをするな。こっちはよくわからないんだから。あの時も床へ行けといってくれればよかったのに、なんで俺を起こさなかったんだ?」
「ええええ。どの面ぁ……?」
呆然とつぶやく梨太に背を向け、コキリと首を傾ける鮫島。
「……リタの体を抱いて眠るのは気持ちがいいな」
顎が、地面まで落ちる――
そのせいで返事もできない間に、彼は反対側に首を傾けた。つれない口調で続ける。
「しかし寝返りが打てないのがつらい。やはり今度からはこっちの『おふとん』で寝ることにしよう」
そんなことを言って、部屋を出ていってしまった。
梨太はあわてて、彼の背中に向かって手を伸ばし、
「あのっ、ちょっと待っ――」
追いかけようとしたところで、扉が閉まる。
梨太はその場に座り込んだ。
「……っう、ぉあああああ」
そんな、声にならない声を漏らした。
朝食にトーストを焼き、塩気を強めたスープを添える。
「黄色い」
のぞき込んだ鮫島が変なコメントをした。
コンソメベースに冷凍粒コーンを投入し、強く沸騰させながら、溶き卵を細く回して流し込む。沸騰の水流で踊るように卵が固まり、火を止めた鍋のなかでふんわりと広がっていく。
「花みたいだ」
可愛らしい言い回しに梨太は笑った。
カップにスープを移しながら、
「いいセンスだね。その名もずばり、黄花湯というんだよ」
ほめられて、鮫島はとてもうれしそうな顔をした。
食卓につき、トーストを一口かじったところで、梨太の携帯電話がアラームをならす。
ちょっと失礼、と断って、スマホの画面を確認する。ポップなアイコンで緊急を告げるメッセージだった。梨太はアイスティで口の中のものを飲み下すと、席を外した。
リビングソファのほうへ離れ、通信を開始する。
画面の中に、黒檀色の肌を持つ男の姿が映し出された。カメラに向かって手をぶらぶらさせ、流暢な日本語が飛び出した。
「ようリタ、元気してる? 飯食ったか? うんこは出たか?」
梨太は苦笑。
「バンズ、こっちはまさに朝食中。挨拶の言葉は選んで」
彼の母国語で回答すると、彼は素直に謝った。オーバーアクションでのけぞって、しかしすぐに本題に入る。
「こっちで集めた資料、片っ端から送っといたぜ。PCの方へ送ったら目を通しといてくれ」
「ありがとう、すぐに確認して返答をだすよ」
「あのナレーションの原稿はリタが書いたのか?」
「うん、読み上げはウェブ企業のナレーションに発注した」
「微妙に動画と長さがずれていたぶん、編集しといた。万が一日本語が破綻していたらすぐに戻すので言ってくれ」
「ああそう。そうだね、撮り直してもらう時間も予算もないもんねえ。ホントにいざとなったら僕の声でやるけど」
「それはやめとけリタ、お前、日本語だとたまに訛るだろ」
「あはは。しょうがないっしょ、生まれてから十四年住んでたとこのだもの。第二外国語のほうが入り口が教科書だから綺麗なんべさ」
梨太の言葉に、バンズは首をかしげた。彼は日本語の聞き取りにまだ未熟であった。
彼らは日本に来たこともなく、ほとんど教材だけで語学習得してきている。難しい単語は習得しても、地方訛りを混ぜると急に通じなくなってしまうのだ。
「……さて、いよいよ来週だな。俺は直接参加はできないが、遠いここからエールを送るぜ。がんばれリタ。愛してるよ」
「ありがとう、僕も愛してるよバンズ」
男二人、腹を抱えて笑う。
ふと、そのバンズが表情を変えた。太い指をこちらへ向けて、ワーオを大きな声を出す。
「オーゴッド、なんと美しい! ハローこんにちはグッモーニン」
振り向くと、すぐ後ろに、鮫島がいた。
ソファの背もたれから身を乗り出し、バンズに応えて手を振ってみせる。陽気な男は意味のない踊りを織り交ぜたジェスチャーで自己紹介した。
「リタ、モデルまで雇ったのか? そりゃいいけど、なんでお前の家で朝食をとってるんだ。詳しく聞かせてもらおうじゃないか」
「違う違う、彼――彼女は友達だよ。仕事でこっちへ来ていて、ホームステイみたいにうちへ泊まっているだけさ」
「はー? 何をいろんな意味でもったいない、おまえらしくないじゃないか。すばらしい、ちょうどいい。彼女にキャンペーンガールやってもらえないのか? それだけ美人ならいるだけで目をひくぜ」
梨太はぎょっとして、あわてて手を振った。
「ダメだよ、彼女も仕事があるんだから。これは僕の自分の仕事」
バンズもそれほど本気で言っていたわけではない。下世話なからかいの言葉を梨太に投げ、ごく短い時間談笑して、通信は切られた。
とりあえず朝食を再開しようと、ダイニングのほうへ戻る。そして、鮫島の食事もまだ途中だったことに驚いた。てっきりマイペースに食べ終えていると思っていたのだが。
梨太が席に戻ると、彼も正面につき、再開する。
少し冷めた、スープの卵をスプーンでつつく。黄色い花が水面でゆらゆら動くのを、鮫島は幸せそうにじっと見つめていた。
そうして彼がのんびりしている間に、梨太は自分の食事を手早くすませた。ごちそうさまと手を合わせ、すぐに立ち上がる。
食器を片づけながら、
「ごめん、僕やることあるから。鮫島くんゆっくり食べてて」
そう言い捨てて、カウンターデスクのノートパソコンを開く。デスクトップからメールボックス、添付データを解凍している間に飲み物を入れ、座り直す。
鮫島に背を向けて、梨太はそのまま作業を始めた。
背もたれのない椅子に座り、前かがみ気味に、画面へ向かう、十九歳の少年。
椅子の高さは彼が今より十五センチ背が低かった頃から変えていない。若干居心地悪そうに、それでも、栗色の後頭部は微動だにすらせず集中している。
カタカタと無機質なタイプ音に、時々ペンタブレットを操作する擦過音。
鮫島は黙って食事を終えると、物音一つたてずにそれをシンクへと片づけた。ダイニングのほうへ戻って、座る。
梨太が一度、トイレに立った。その間に彼は皿を洗い、梨太が戻って作業を再開する頃、また黙って席に着いた。
そうして彼らは、そのまま四時間の時を過ごす。
梨太が二度目のトイレと、グラスにおかわりを注ぎに冷蔵庫へ向かったとき、ふと鮫島が声を漏らした。聞こえなかったらそれで構わない、というくらいの声量でぼそりと。
「リタ。お昼ご飯……」
言われて、梨太は壁掛け時計を見上げた。正午を少し回っていた。
「ああ……そうだね。ひと段落したら作るよ」
そう言って、彼はまたデスクへと戻った。
鮫島はテーブルから、その背中をまたじっと見つめて、そこに居た。
そのまま一時間――彼は、旅の鞄から、スケッチブックを取り出した。
梨太がタイピングをする音と、柔らかな鉛筆が画用紙を撫でる音。そして二人の呼吸の音だけがある空間で、彼らはそのまま同じ時間を過ごし続けた。
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