鮫島くんのおっぱい
梨太君の危機・三回目④
少年達の声ががぜん色めき立った。
「……うわ、こっち見たっ」
「可愛いじゃん、ふつうの女の子にしか」
「いや、絶対ほんとだって。モク速ネットで晒されてた服だし、あの目、間違いない――」
少女はすぐに背を向けて、早足で進み始めた。カメラが激しく揺れながら追いかける。とうとう少女は走り始めた。
「逃げた!」
「ほら言ったろ、やっぱり北見信吾だ。あいつが、『あの事件の黒幕』だ!」
少年たちの歓喜の声。
撮影者が地面に屈み、野球ボールほどの石を放った。少女の後頭部に直撃し、衝撃に頭部が揺れた。帽子がずれて長い黒髪ごとアスファルトへ落下する。
あらわれたのは、鮮血に濡れた栗色の髪。少女じみた幼い顔立ちに、不似合いなほど凛々しい眉をした少年がそこにいた。
彼は無言のまま、己の血を浴びた石を拾い上げる。何の迷いもなく振りかぶると、それをカメラ画面に向けて撃ち込んできた。石は正確にカメラレンズに叩き込まれ、液晶画面にヒビが刻まれる。少年たちの悲鳴。動画はそこで唐突に終わった。
三分間の物語。
それは、何も知らない人間が見れば、意味の分からないものだった。だがたった一つの知識があれば、その意味をすべて理解できる。
岩浪が言った。
「北見信吾という名は、それほど珍しいものではないね。同姓同名も日本中にいるだろう。だがあの事件の黒幕――と言えば、この世のたった一人を現すコトバになる」
動画再生ソフトを停止させる。画面が元のデスクトップへ戻された。岩浪は独白のように続けた。
「北見幸雄、明日香。始まりは、この夫婦だな。アダムとイブは己の身を滅ぼす果実に溺れ、それを楽園の天使たちにもかじらせて、すべてを巻き込んで破滅していった」
梨太は半眼になった。
「なにその詩的な言い方。合法ドラッグなんていう、語感だけで気軽に手を出したアホなヤク中教師が売人オチして学級崩壊。それだけの話でしょ」
ついつい地の話し方が出る。岩浪が笑った。
――合法ドラッグ。
それが、危険ドラッグと名を変えたのは近年のことである。合法とは、法律で許されている、という意味ではない。まだ「非合法である」と認定を受けていない、新しい麻薬のことをそう呼ぶだけだ。むしろ危険度は高いといえよう。
山椒ほどの、小さな緑色の錠剤だった。
とある私塾は、その実に内部から食いつぶされた。
どこにでもいる、中流家庭の中年夫婦。まず彼らが使用し、溺れたのだという。
彼らが悪魔の実を手にした経緯、動機はいまだわからない。どうせ、よくあるベタな展開でハマったのだろうと梨太は思う。そして結末もよくあるオチだ。
中毒になった夫婦はすっかり理性を失くしていて、薬のためならなんでもやった。私財を使い込み、それが尽きてもなお止められない。売人の靴を舐めて這いつくばり、そして悪魔の手先となった。
使用者から、売人に。
それだけならば、本当によくある話だったのだ。だが売った場所と相手が悪かった。彼らの職業は教師――職場は、日本中の優秀な少年少女を集めた私塾であった。
まず話題になったのは国家公務員の娘。そして彼女が率いる売春グループに、日本中の誰もが親しむ有名司会者の子息の名があったとき、この国は炎上した。
北見信吾という少年が事件を知ったのは、両親とクラスメイトが軒並み検挙されたその時だった。
可哀そうにねえ。と、岩浪は言った。
「同居のご両親と学園の一割以上の少年少女が堕ちていたのを、なにも知らなかったというのは、ちょっと苦しいね。毎日一緒に過ごしていたのだから。任意同行を求められるのは仕方ないと思うよ」
「別に、警察に恨みはないですよ。検査は生徒全員がさせられたし」
梨太は即答した。
梨太もまた、薬物使用の検査を強制された。
検査結果が出れば疑いは晴れると思ったのに、使用形跡がないとなると、それがかえって怪しいとされた。
同居の両親の変化に気が付かないなんてありえない――
おまえのクラスが一番、使用者が多くいた――
海外留学や、在日留学生との交流も深い。手に入れられるルートがあったんじゃないか――
カウンセリングという名目で、毎日のように召喚される。その数か月間は、あまり記憶らしいものがない。ただ辛かったことはなんとなく覚えている。
両親はきっと、それ以上の責め苦を受けたのだろう。
そのストレスだったのか、それとももっと前から壊れていたのだろうか。梨太が解放されたとき、彼らは言葉を話すことが出来なくなっていた。いっそさっさと自白をし、裁かれて、懲役を受けていれば、今頃もう出所していたかもしれない。しかし檻付き病院から退院のめどは一向に立たず、裁判は保留のまま五年間、面会すらもしていない。
誰を怨めばいいのかもわからない。きっと、親戚や、被害者生徒親族たちもそうなのだろう。
行き場のない怒り。
それが一人息子に向けられたのも、梨太は客観的に理解していた。
それを受け止めることまでは出来なかったけれども。
岩浪はキーボード操作をし、削除、の項を選択した。
画面に確認のセリフが表示される。
「君は遠縁の夫婦に養子に入り、まったく新しい名前をもらった。だが一度も同居はしていないね? 名前も嘘、家も嘘。栗林梨太くん、君の経歴は何もかもでっち上げだ。よくもまあ上手に友達をつくって、ご近所にもなじんだねえ」
「……経歴は、たしかに全部偽物だけど、友達を相手に、自分を偽ってたわけじゃないから」
『削除しますか』
岩浪はエンターキーを押した。
「ならばなおさら、大切にしないとね」
そしてノートパソコンを閉じると、梨太に向かいあいにっこりと笑った。身を乗り出し、手首を捕まえに来る。
そのあまりにも愚直な特攻は、可愛げすらあったが――
梨太は岩浪の手を払った。
「梨太くん?」
「寄るな変態! だれが、おまえの思い通りになんかなるものかっ!」
ひるんでいる隙に、梨太は身を翻した。
走り出そうとした足首を掴まれて倒れこむ。
「あっ!」
顎から落ち、痛みにあえぐ。その背中に人間の体重がのしかかってきた。肩を掴まれ仰向けにされると、腹の上に跨った岩浪がニヤリと分厚い笑みを浮かべた。もがいて揺れる、栗色の髪を視姦する。
「残念だったね。……二つの意味でさ」
「離せっ……どけよ!」
梨太は拳を振りかざし、岩波の胸を打った。すぐに掴まれ、床に磔けられる。大柄な男が体重を乗せると、両腕を使ってもびくともしない。
「データを消させて、そのまま逃げようっていう君の作戦は最初からお見通しだよ。ごめんね、騙して。動画データはあれひとつじゃない。タブレットのほうにもコピーがある」
岩浪の言葉に、梨太は呪詛を吐く。暴れる少年を片手で抑えながら、岩波は胸元からスマートフォンを取り出した。慣れた手つきで素早く操作すると、梨太の顔にカメラを向けて。
「そしてもっと可愛いところも、ボクのコレクションフォルダに招待するよ……」
「く……くそっ! ちくしょうっ……」
「こんな痩せっぽちの未成年が、ボクから逃げられると思ってるのか? できれば優しくしてあげたかったけどもね。抵抗するなら、仕方ない。一度このまま床で遊ばせてもらおう。それで少しは大人しくなるだろう」
「いっ、いやだ! やだぁっ」
梨太は全力で身をよじり、悲鳴を上げ、泣き叫んだ。お願いやめて、助けてと憐れみを乞う。それで聞くような男では無論ない。むしろ煽られ、岩浪の目に強い加虐嗜好が宿った。対して、少年の目が恐怖に揺れる。
琥珀色の瞳を涙でにじませて、梨太は甲高い声で泣いた。
その時。扉が勢いよく開かれた。
「……うわ、こっち見たっ」
「可愛いじゃん、ふつうの女の子にしか」
「いや、絶対ほんとだって。モク速ネットで晒されてた服だし、あの目、間違いない――」
少女はすぐに背を向けて、早足で進み始めた。カメラが激しく揺れながら追いかける。とうとう少女は走り始めた。
「逃げた!」
「ほら言ったろ、やっぱり北見信吾だ。あいつが、『あの事件の黒幕』だ!」
少年たちの歓喜の声。
撮影者が地面に屈み、野球ボールほどの石を放った。少女の後頭部に直撃し、衝撃に頭部が揺れた。帽子がずれて長い黒髪ごとアスファルトへ落下する。
あらわれたのは、鮮血に濡れた栗色の髪。少女じみた幼い顔立ちに、不似合いなほど凛々しい眉をした少年がそこにいた。
彼は無言のまま、己の血を浴びた石を拾い上げる。何の迷いもなく振りかぶると、それをカメラ画面に向けて撃ち込んできた。石は正確にカメラレンズに叩き込まれ、液晶画面にヒビが刻まれる。少年たちの悲鳴。動画はそこで唐突に終わった。
三分間の物語。
それは、何も知らない人間が見れば、意味の分からないものだった。だがたった一つの知識があれば、その意味をすべて理解できる。
岩浪が言った。
「北見信吾という名は、それほど珍しいものではないね。同姓同名も日本中にいるだろう。だがあの事件の黒幕――と言えば、この世のたった一人を現すコトバになる」
動画再生ソフトを停止させる。画面が元のデスクトップへ戻された。岩浪は独白のように続けた。
「北見幸雄、明日香。始まりは、この夫婦だな。アダムとイブは己の身を滅ぼす果実に溺れ、それを楽園の天使たちにもかじらせて、すべてを巻き込んで破滅していった」
梨太は半眼になった。
「なにその詩的な言い方。合法ドラッグなんていう、語感だけで気軽に手を出したアホなヤク中教師が売人オチして学級崩壊。それだけの話でしょ」
ついつい地の話し方が出る。岩浪が笑った。
――合法ドラッグ。
それが、危険ドラッグと名を変えたのは近年のことである。合法とは、法律で許されている、という意味ではない。まだ「非合法である」と認定を受けていない、新しい麻薬のことをそう呼ぶだけだ。むしろ危険度は高いといえよう。
山椒ほどの、小さな緑色の錠剤だった。
とある私塾は、その実に内部から食いつぶされた。
どこにでもいる、中流家庭の中年夫婦。まず彼らが使用し、溺れたのだという。
彼らが悪魔の実を手にした経緯、動機はいまだわからない。どうせ、よくあるベタな展開でハマったのだろうと梨太は思う。そして結末もよくあるオチだ。
中毒になった夫婦はすっかり理性を失くしていて、薬のためならなんでもやった。私財を使い込み、それが尽きてもなお止められない。売人の靴を舐めて這いつくばり、そして悪魔の手先となった。
使用者から、売人に。
それだけならば、本当によくある話だったのだ。だが売った場所と相手が悪かった。彼らの職業は教師――職場は、日本中の優秀な少年少女を集めた私塾であった。
まず話題になったのは国家公務員の娘。そして彼女が率いる売春グループに、日本中の誰もが親しむ有名司会者の子息の名があったとき、この国は炎上した。
北見信吾という少年が事件を知ったのは、両親とクラスメイトが軒並み検挙されたその時だった。
可哀そうにねえ。と、岩浪は言った。
「同居のご両親と学園の一割以上の少年少女が堕ちていたのを、なにも知らなかったというのは、ちょっと苦しいね。毎日一緒に過ごしていたのだから。任意同行を求められるのは仕方ないと思うよ」
「別に、警察に恨みはないですよ。検査は生徒全員がさせられたし」
梨太は即答した。
梨太もまた、薬物使用の検査を強制された。
検査結果が出れば疑いは晴れると思ったのに、使用形跡がないとなると、それがかえって怪しいとされた。
同居の両親の変化に気が付かないなんてありえない――
おまえのクラスが一番、使用者が多くいた――
海外留学や、在日留学生との交流も深い。手に入れられるルートがあったんじゃないか――
カウンセリングという名目で、毎日のように召喚される。その数か月間は、あまり記憶らしいものがない。ただ辛かったことはなんとなく覚えている。
両親はきっと、それ以上の責め苦を受けたのだろう。
そのストレスだったのか、それとももっと前から壊れていたのだろうか。梨太が解放されたとき、彼らは言葉を話すことが出来なくなっていた。いっそさっさと自白をし、裁かれて、懲役を受けていれば、今頃もう出所していたかもしれない。しかし檻付き病院から退院のめどは一向に立たず、裁判は保留のまま五年間、面会すらもしていない。
誰を怨めばいいのかもわからない。きっと、親戚や、被害者生徒親族たちもそうなのだろう。
行き場のない怒り。
それが一人息子に向けられたのも、梨太は客観的に理解していた。
それを受け止めることまでは出来なかったけれども。
岩浪はキーボード操作をし、削除、の項を選択した。
画面に確認のセリフが表示される。
「君は遠縁の夫婦に養子に入り、まったく新しい名前をもらった。だが一度も同居はしていないね? 名前も嘘、家も嘘。栗林梨太くん、君の経歴は何もかもでっち上げだ。よくもまあ上手に友達をつくって、ご近所にもなじんだねえ」
「……経歴は、たしかに全部偽物だけど、友達を相手に、自分を偽ってたわけじゃないから」
『削除しますか』
岩浪はエンターキーを押した。
「ならばなおさら、大切にしないとね」
そしてノートパソコンを閉じると、梨太に向かいあいにっこりと笑った。身を乗り出し、手首を捕まえに来る。
そのあまりにも愚直な特攻は、可愛げすらあったが――
梨太は岩浪の手を払った。
「梨太くん?」
「寄るな変態! だれが、おまえの思い通りになんかなるものかっ!」
ひるんでいる隙に、梨太は身を翻した。
走り出そうとした足首を掴まれて倒れこむ。
「あっ!」
顎から落ち、痛みにあえぐ。その背中に人間の体重がのしかかってきた。肩を掴まれ仰向けにされると、腹の上に跨った岩浪がニヤリと分厚い笑みを浮かべた。もがいて揺れる、栗色の髪を視姦する。
「残念だったね。……二つの意味でさ」
「離せっ……どけよ!」
梨太は拳を振りかざし、岩波の胸を打った。すぐに掴まれ、床に磔けられる。大柄な男が体重を乗せると、両腕を使ってもびくともしない。
「データを消させて、そのまま逃げようっていう君の作戦は最初からお見通しだよ。ごめんね、騙して。動画データはあれひとつじゃない。タブレットのほうにもコピーがある」
岩浪の言葉に、梨太は呪詛を吐く。暴れる少年を片手で抑えながら、岩波は胸元からスマートフォンを取り出した。慣れた手つきで素早く操作すると、梨太の顔にカメラを向けて。
「そしてもっと可愛いところも、ボクのコレクションフォルダに招待するよ……」
「く……くそっ! ちくしょうっ……」
「こんな痩せっぽちの未成年が、ボクから逃げられると思ってるのか? できれば優しくしてあげたかったけどもね。抵抗するなら、仕方ない。一度このまま床で遊ばせてもらおう。それで少しは大人しくなるだろう」
「いっ、いやだ! やだぁっ」
梨太は全力で身をよじり、悲鳴を上げ、泣き叫んだ。お願いやめて、助けてと憐れみを乞う。それで聞くような男では無論ない。むしろ煽られ、岩浪の目に強い加虐嗜好が宿った。対して、少年の目が恐怖に揺れる。
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