鮫島くんのおっぱい
鮫島くんが嫌い
霞ヶ丘市は、温暖な町だった。
梨太が生まれたところとは年の平均気温が十度も違う。雪の降らない年も珍しくない。梨太はこの町に来てから六年近く、たったの一度も、雪かきをしたことがなかった。ここで生まれ育った人間は、きっと一生しないのだろう。
それはとても楽な生活だと思う。
だがその代わり、夏はうだるほどに暑かった。
マイカー所有率が高いせいか、田舎のくせに道路の舗装は行き届いているらしい。見渡す限りに漆黒のアスファルトが敷かれた道路。照り返す太陽光は、故郷の冷風よりもよっぽどひどく、梨太の体を傷つける。
もともと梨太は、肌が弱かった。日焼け止めをサボっているだけで、その素肌は象牙色をしている。長そでの白いシャツを羽織って防御をしたが、すると今度はひどく蒸す。スーツケースを引く手が滑る。
梨太は大きく舌打ちをした。
玄関扉に、鍵はかかっていなかった。
梨太は静かに扉を開けて、無言のままリビングに入り――すぐに、鮫島の後ろ姿を見つけた。
ダイニングテーブル、いちばん扉に近い、いつもの彼の指定席。
深く腰掛けたまま、テーブルに突っ伏していた。
足下には大きな鞄がいくつもある。そこから一人、主不在の家で、どうくつろいでいいかわからなかったらしい。
何か勉強でもしていたのか、右手にしっかりとペンが握られている。顔の下には薄い書籍。
なにもかも中途半端に投げ出して、鮫島はそこで居眠りをしていた。
そこでようやく、気配を感じたらしい。鮫島はむっくりと起き上がった。梨太の帰宅を確認すると、紙の跡がついた顔をふにゃっとほぐして微笑んだ。
「おかえり」
「……ただいま」
シャツを脱ぎながらそれだけ言って、梨太はすぐにスーツケースを開いた。洗濯物やゴミを出し、あわただしく家中を回っていく。
梨太は、無精な整頓の仕方が嫌いだった。潔癖ではないがコダワリがある。教材や趣味のものは自室、洋服はクローゼット、飲食物はキッチン、生活雑貨はリビング。決まった場所に必ず直す。
当たり前のことではあるが、簡単ではない。外出の前後にはいつも家中を歩き回り、あちこちの引き出しを開け閉めすることになる。だが長い目で見れば効率的だと梨太は思う。ただ性格が几帳面ということもあるのだが。
十五分後、リビングに戻ったとき、鮫島は冷蔵庫を開けていた。梨太がとりあえずシンクに置いた、弁当箱を仕舞おうと手に持っている。ぎょっとして叫んだ。
「なにしてんの!? それ、ゴミだよ!」
停止する鮫島。梨太は足音高く歩み寄った。
「持ったら軽さでわかるでしょ。からっぽになった使い捨てのコンビニ弁当だ。そんなもの僕の家の冷蔵庫に入れないで」
言われて、彼はすぐそばのゴミ箱を開く。梨太はあわてて、その手から弁当箱を奪い取った。
「一度洗って分別! 鮫島くんそういうこと全然知らないんだからもう手を出さないでよ。あとで町内会から怒られるのは僕だよ」
「……ごめん」
無駄に強い言い方をしてしまった自分に、素直に頭を下げる彼に、苛立つ。梨太は自分の感情が、むやみに尖っていることを自覚した。
(……いけない。八つ当たりしている)
顔を手で覆い、軽く振る。
真夏に歩いて帰ったばかりなのに、頬が冷えていた。手のひらもだ。冷たいもの同士をこすりあわせ、何とか温度をあげようと苦心する。
その手首を、そっと、暖かな体温がつかむ。
視界が美女の顔で埋まる。青みがかった双眸はこの世に実在することが信じがたいほどに澄んでいる。端正な顔立ちは間違いなく成人のものだが、その肌と瞳の透明感だけは、無垢な赤ん坊のようだった。
「……リタ。どうかした?」
女性としては低い、暖かくて優しい声。
それは厳しくも優しい、母のぬくもりのようで――
梨太は身を震わせた。
「どうもしないよ」
そう言って、その手を振り払った。ともすれば乱暴にしてしまいそうなのを抑える、それが、億劫でたまらなかった。
「鮫島くん、そんなところで寝てたら体痛めるよ。僕の手伝いはいいから上で寝ておいで」
「少しうとうとしただけ。もう起きた」
騎士団長は、気が利かない。梨太は彼に背を向け、自分用の飲み物を作った。戸棚を開け閉めするたび音が鳴る。客が物静かなせいで、その騒音はよく響く。梨太はこういう物音が嫌いだった。
「なにを作るんだ?」
鮫島が話しかけてくる。梨太は、作業中にぐちゃぐちゃと雑談をするのは嫌いだった。意味のある会話でもないのに、意味のある作業を中断させて、返事をしなくてはいけないのが嫌だった。
「あ、インスタントコーヒーだ」
見ればわかることを口にする意味がわからなかった。
「それ、ラトキアにもある。オーリオウルから入る。今までリタが飲んでいるのを見たことがなかったから、地球にはないのかと思った」
返事もしていないのに、一人でしゃべり続けられる神経がわからなかった。
「……君も欲しいならそう言えば?」
そう、促してみたが、彼は返事をしなかった。
話しかけられたのに、返事をしないで黙っている神経がわからなかった。梨太はもう一度嘆息した。
マグカップを持ってリビングを出ていく。梨太は二階へ行くことにした。もともとリビングにあるノートPCはテレビ電話代わりみたいなもので、複雑な作業は置き型のほうがやりやすい。
自室にこもり、十分ほどが経った頃、扉が軽くノックされた。
「リタ、ごはん」
鮫島の声。
梨太は大きく舌打ちをした。扉の向こうの彼にも聞こえただろうが侘びはしない。大きな声で、伝える。
「自分で作るなり買ってくるなり勝手になんとかしてよ。ここは食堂じゃないし、僕は君のメイドじゃないんだよ」
「……。いや……リタの……」
「僕? 新幹線で食べてきた。さっきの弁当箱のゴミがそれ。見てわかんないかなあ――」
扉の向こうで、鮫島が押し黙る。タイプミスの頻出する画面に前のめりになって、梨太はそれでもキーボードを叩き続けた。タイプ音に消え入るほど小さな声が、扉の向こうから聞こえてくる。
小さいくせにやけに通りのよい声質。聞き取ってしまったことが、嫌だった。
「わかるわけがない。リタ、ちゃんと言って」
梨太は手を止めた。
しばらく、そのまま停止する。
喉仏まで上ってきた怒号を、必死になって押さえ込む。
どうしてこんな苦労をしなくてはいけないんだ。自分の家なのに。
彼はただの来客で、ヤらせもしないくせに何泊もしている厚かましい宇宙人である。
美しいのは人形じみた見た目だけ。中身は、やはり男性なのだろうか。それとも女になってしまったからこそだろうか。梨太の男心など何一つ解さない。
解そうという努力をしない。
鮫島が、騎士団員や学生たちに畏れられ、距離を置かれている理由は簡単だ。彼は声音や表情の変化が少ない。無いわけではない、その動きが極端に少ないだけである。そこに騎士団長という立場や戦士の風格、鋭利かつ清廉な美貌が近寄りがたさを生んでいる。
だがその本性は温厚の極みだ。優しくて素直で気さくで、明るくて、人間のことが好き。友達が欲しいと願ってやまない寂しがり屋。
それなのに、愛想笑いの一つも浮かべはしない。
梨太のような目をもつ人間がじっと見つめて、己の真意を汲み取ってくれることを期待して、自分を変えようという努力を怠っている。
梨太は怠け者が嫌いだった。
梨太は拳を握った。跳ね上がってしまいそうな声量を、全力で努力をして、優しく、柔らかく、吐き出す。
「……ごめん。鮫島くん。僕――君が嫌いになってしまう」
扉の向こうで、呼吸音が止まった。
「ごめん。……出ていって。しばらく、だけで……いいから」
そこから、物音は何もしなくなった。
床板を滑る音も、階段を踏む音も、髪が揺れてこすれる音もなく、家が静まり返る。
食事がとれるほどの時間、そのまま梨太は沈黙し、停止して――
振り返ることはせず、作業を再開していった。
梨太が生まれたところとは年の平均気温が十度も違う。雪の降らない年も珍しくない。梨太はこの町に来てから六年近く、たったの一度も、雪かきをしたことがなかった。ここで生まれ育った人間は、きっと一生しないのだろう。
それはとても楽な生活だと思う。
だがその代わり、夏はうだるほどに暑かった。
マイカー所有率が高いせいか、田舎のくせに道路の舗装は行き届いているらしい。見渡す限りに漆黒のアスファルトが敷かれた道路。照り返す太陽光は、故郷の冷風よりもよっぽどひどく、梨太の体を傷つける。
もともと梨太は、肌が弱かった。日焼け止めをサボっているだけで、その素肌は象牙色をしている。長そでの白いシャツを羽織って防御をしたが、すると今度はひどく蒸す。スーツケースを引く手が滑る。
梨太は大きく舌打ちをした。
玄関扉に、鍵はかかっていなかった。
梨太は静かに扉を開けて、無言のままリビングに入り――すぐに、鮫島の後ろ姿を見つけた。
ダイニングテーブル、いちばん扉に近い、いつもの彼の指定席。
深く腰掛けたまま、テーブルに突っ伏していた。
足下には大きな鞄がいくつもある。そこから一人、主不在の家で、どうくつろいでいいかわからなかったらしい。
何か勉強でもしていたのか、右手にしっかりとペンが握られている。顔の下には薄い書籍。
なにもかも中途半端に投げ出して、鮫島はそこで居眠りをしていた。
そこでようやく、気配を感じたらしい。鮫島はむっくりと起き上がった。梨太の帰宅を確認すると、紙の跡がついた顔をふにゃっとほぐして微笑んだ。
「おかえり」
「……ただいま」
シャツを脱ぎながらそれだけ言って、梨太はすぐにスーツケースを開いた。洗濯物やゴミを出し、あわただしく家中を回っていく。
梨太は、無精な整頓の仕方が嫌いだった。潔癖ではないがコダワリがある。教材や趣味のものは自室、洋服はクローゼット、飲食物はキッチン、生活雑貨はリビング。決まった場所に必ず直す。
当たり前のことではあるが、簡単ではない。外出の前後にはいつも家中を歩き回り、あちこちの引き出しを開け閉めすることになる。だが長い目で見れば効率的だと梨太は思う。ただ性格が几帳面ということもあるのだが。
十五分後、リビングに戻ったとき、鮫島は冷蔵庫を開けていた。梨太がとりあえずシンクに置いた、弁当箱を仕舞おうと手に持っている。ぎょっとして叫んだ。
「なにしてんの!? それ、ゴミだよ!」
停止する鮫島。梨太は足音高く歩み寄った。
「持ったら軽さでわかるでしょ。からっぽになった使い捨てのコンビニ弁当だ。そんなもの僕の家の冷蔵庫に入れないで」
言われて、彼はすぐそばのゴミ箱を開く。梨太はあわてて、その手から弁当箱を奪い取った。
「一度洗って分別! 鮫島くんそういうこと全然知らないんだからもう手を出さないでよ。あとで町内会から怒られるのは僕だよ」
「……ごめん」
無駄に強い言い方をしてしまった自分に、素直に頭を下げる彼に、苛立つ。梨太は自分の感情が、むやみに尖っていることを自覚した。
(……いけない。八つ当たりしている)
顔を手で覆い、軽く振る。
真夏に歩いて帰ったばかりなのに、頬が冷えていた。手のひらもだ。冷たいもの同士をこすりあわせ、何とか温度をあげようと苦心する。
その手首を、そっと、暖かな体温がつかむ。
視界が美女の顔で埋まる。青みがかった双眸はこの世に実在することが信じがたいほどに澄んでいる。端正な顔立ちは間違いなく成人のものだが、その肌と瞳の透明感だけは、無垢な赤ん坊のようだった。
「……リタ。どうかした?」
女性としては低い、暖かくて優しい声。
それは厳しくも優しい、母のぬくもりのようで――
梨太は身を震わせた。
「どうもしないよ」
そう言って、その手を振り払った。ともすれば乱暴にしてしまいそうなのを抑える、それが、億劫でたまらなかった。
「鮫島くん、そんなところで寝てたら体痛めるよ。僕の手伝いはいいから上で寝ておいで」
「少しうとうとしただけ。もう起きた」
騎士団長は、気が利かない。梨太は彼に背を向け、自分用の飲み物を作った。戸棚を開け閉めするたび音が鳴る。客が物静かなせいで、その騒音はよく響く。梨太はこういう物音が嫌いだった。
「なにを作るんだ?」
鮫島が話しかけてくる。梨太は、作業中にぐちゃぐちゃと雑談をするのは嫌いだった。意味のある会話でもないのに、意味のある作業を中断させて、返事をしなくてはいけないのが嫌だった。
「あ、インスタントコーヒーだ」
見ればわかることを口にする意味がわからなかった。
「それ、ラトキアにもある。オーリオウルから入る。今までリタが飲んでいるのを見たことがなかったから、地球にはないのかと思った」
返事もしていないのに、一人でしゃべり続けられる神経がわからなかった。
「……君も欲しいならそう言えば?」
そう、促してみたが、彼は返事をしなかった。
話しかけられたのに、返事をしないで黙っている神経がわからなかった。梨太はもう一度嘆息した。
マグカップを持ってリビングを出ていく。梨太は二階へ行くことにした。もともとリビングにあるノートPCはテレビ電話代わりみたいなもので、複雑な作業は置き型のほうがやりやすい。
自室にこもり、十分ほどが経った頃、扉が軽くノックされた。
「リタ、ごはん」
鮫島の声。
梨太は大きく舌打ちをした。扉の向こうの彼にも聞こえただろうが侘びはしない。大きな声で、伝える。
「自分で作るなり買ってくるなり勝手になんとかしてよ。ここは食堂じゃないし、僕は君のメイドじゃないんだよ」
「……。いや……リタの……」
「僕? 新幹線で食べてきた。さっきの弁当箱のゴミがそれ。見てわかんないかなあ――」
扉の向こうで、鮫島が押し黙る。タイプミスの頻出する画面に前のめりになって、梨太はそれでもキーボードを叩き続けた。タイプ音に消え入るほど小さな声が、扉の向こうから聞こえてくる。
小さいくせにやけに通りのよい声質。聞き取ってしまったことが、嫌だった。
「わかるわけがない。リタ、ちゃんと言って」
梨太は手を止めた。
しばらく、そのまま停止する。
喉仏まで上ってきた怒号を、必死になって押さえ込む。
どうしてこんな苦労をしなくてはいけないんだ。自分の家なのに。
彼はただの来客で、ヤらせもしないくせに何泊もしている厚かましい宇宙人である。
美しいのは人形じみた見た目だけ。中身は、やはり男性なのだろうか。それとも女になってしまったからこそだろうか。梨太の男心など何一つ解さない。
解そうという努力をしない。
鮫島が、騎士団員や学生たちに畏れられ、距離を置かれている理由は簡単だ。彼は声音や表情の変化が少ない。無いわけではない、その動きが極端に少ないだけである。そこに騎士団長という立場や戦士の風格、鋭利かつ清廉な美貌が近寄りがたさを生んでいる。
だがその本性は温厚の極みだ。優しくて素直で気さくで、明るくて、人間のことが好き。友達が欲しいと願ってやまない寂しがり屋。
それなのに、愛想笑いの一つも浮かべはしない。
梨太のような目をもつ人間がじっと見つめて、己の真意を汲み取ってくれることを期待して、自分を変えようという努力を怠っている。
梨太は怠け者が嫌いだった。
梨太は拳を握った。跳ね上がってしまいそうな声量を、全力で努力をして、優しく、柔らかく、吐き出す。
「……ごめん。鮫島くん。僕――君が嫌いになってしまう」
扉の向こうで、呼吸音が止まった。
「ごめん。……出ていって。しばらく、だけで……いいから」
そこから、物音は何もしなくなった。
床板を滑る音も、階段を踏む音も、髪が揺れてこすれる音もなく、家が静まり返る。
食事がとれるほどの時間、そのまま梨太は沈黙し、停止して――
振り返ることはせず、作業を再開していった。
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