鮫島くんのおっぱい
鮫島くんがいない
チームにもっとも貢献してくれたのは、スティーブという男だった。
彼と通信がつながって、梨太の第一声は深い謝罪。スティーブの返事は怒りを含む怪訝な声であった。
「おい、どういうことだ? 正念場のイベント二日目を早退しただなんて。コンテストも辞退、ダウンロードサイトも一時撤去だと?」
頷き、謝罪だけを繰り返す。スティーブの声音は熱量を増していく。
「ここにきてチームから抜けてしまいたいなんて。わけがわからないよ! 俺たちはリタに引っ張られてここまでやってきた。おまえがプロジェクトの発起人じゃないか!」
梨太は謝罪しかできない。
そして頼み込む。カメラに向かって頭を下げて、
「お願い、君にそれを継いでほしい……僕が抜けても、ドロップスを失くしたくはないから」
「はあ? おいおい、俺におまえの代わりが務まるかよ! いや、そもそも中身だってまだ」
「うん。だから、これからも仕事は僕がやる。やっぱり僕でなきゃ完成しないだろうから……ごめん、それも、ひどいことを言っているのはわかってる。だけど……」
「タダ働きしたいってか?」
彼は梨太への不信感を隠さず、その表情と口調に露わにし、梨太を睨みつけていた。何故だ、という問いに、梨太はひたすら謝罪と懇願だけを返し続ける。
「……なんとか言えよ……。それとも、嘘を並べないだけ、おまえの誠意だと思っていいのか」
スティーブの問いかけに、頷く。
「厚かましいことを頼んでいるのは、わかってる。僕は……一般公開の場には君に出てもらって、だけどプロジェクトには参加し続けたい……」
「それじゃあ、当たり前だけどドロップス開発の第一人者っていう実績も放棄することになるぞ。完成したら、これを基盤に博士号取りに行けるって言っていた。それを、なんで今更」
「いいんだ。仕方ないことだから」
スティーブは長い沈黙の後、低い唸り声を漏らす。それはその役目を億劫がっているのではなく、梨太の真意をはかりかね、自身の猜疑心を押さえ込む言い訳を考えているのだろう。
梨太はじっと、彼の結論を座して待った。
やがて、スティーブは首を縦に振った。
「……いいよ、リーダーとして、発表の場に顔と名前は貸してやる。だけど開発の最大功労者はお前だ。むやみに公言しなきゃ、学会にそう伝える分には構わねえんだろ」
梨太は深々と頭を下げ、再度の謝罪と、感謝の気持ちを伝えた。
スティーブとの通信を切ってからも、ほかの人間と同じような会話を繰り返す。いくつかのイベントで梨太が出るはずだったところを埋めてもらわなくてはならない。
ひとりひとり、頼み込む。
激怒する者もいた。次の瞬間、グループリストからユーザー名が消えていることもあった。
夏の空が暗くなりはじめ、だんだんろれつも回らなくなってきた。
そういえば昨日の昼、ステージの上で五分ばかり失神して以降一睡もしていないことを思い出す。どおりで頭痛なんてめずらしいことになるわけだ。
チカチカと点滅して見える画面に、ごめんなさいとお願いしますを吐き出し続けて――
「……もういいわリタ。それよりあなた、少し眠りなさい。顔が真っ白よ。アンリたちにはあたしから言っといてあげるから……」
優しい言葉に操られて、梨太は電源を落とした。そのままベッドへと倒れこむ。携帯電話が点滅し、いくつかのメッセージを受信した。
「おやすみリタ。愛してるよ」
梨太はようやく瞳を閉じた。
カーテンを開けたまま、寝てしまったらしい。目を覚ますと部屋はすっかり明るくなっていた。
たっぷり睡眠をとったおかげで、体はもうすっかり回復していた。鈍い頭痛も四肢の違和感も、きれいになくなっている。
あたりを見回す。
自室は、梨太が眠りにつく前と何らかわりない様子でそこにあった。
自室の扉を開けて出る。ちいさな足場から、まっすぐに下る階段。その先は玄関ポーチに突き当たる。白いタイル床に靴は無い。
玄関から見て右手がトイレ、その隣に洗面所。脱衣所と風呂場。
廊下を挟んで向かいに、リビング、ダイニング、キッチンまとまった大きな一部屋があった。
二十二畳のLDKは、来客の全員が「わあ、広い」と声を漏らす。
潔癖とまでいかない程度に掃除され、いつ誰がやってきても恥ずかしくないようになっていた。
快適なこの家は、初めての客もすぐにくつろいでくれる。
常備している、客用の飲み物。一人暮らしの男子らしからぬ食器の数。四人掛けのダイニングテーブルに、応接リビング。客用の布団。
すてきね。きちんとしてるんだね。梨太君はしっかりしてるね――誰もがそう言うこの家を、一度だけ嘲笑されたことがある。
「寂しいのか、北見信吾」
その男はそう言った。
「どれだけおまえが胸襟を開いたところで、もう家族が戻ってきやしないんだぞ」
(……あれは、誰に言われたんだったかな――)
静まりかえった広い部屋で、梨太はしばらく立ち尽くしていた。
覚醒した少年の体が空腹を訴える。梨太はとりあえず牛乳を取り、席につこうとして、ふと視線が止まる――テーブルの上、一番手前の椅子のあたりに数冊の書籍があった。
昨日、鮫島が枕にしていたものだ。なんとなく手にとって、表紙の字を読んでみる。
――やさしいにほんご。――にほんじんとともだちになろう!
――ひらがなドリル――対象年齢3歳~
――料理という概念――
最後の書籍をめくってみた。やたら大きな字で、一番はじめのページに注釈が入れられている。声に出して読み上げてみた。
「料理は愛情! しかし食えないものを人様に出すことは、断じて愛情なんかではない」
半眼になる。そのまま2、3ページめくってみる。
「初心者はレシピを遵守せよ。創意工夫、隠し味、材料代用は十年早い。どうしてもやりたければ独りでやれ。恋人に料理も自分も捨てられたくなければ、この本のいうことに100%従いなさい。美味しくしようなどと考えるな。食えるものを作る、まずはそこから。……この本おもしろいな」
牛乳を飲みながら読んでいくと、途中、カラーペンで囲まれた文字列を見つけた。鮫島が付けたものだろう。
「……米を洗剤で洗うのは論外。米は研ぐものである。※砥石を使って表面を削ることをいうことではない……」
さらにめくる。数ページあと、また、カラーペンのラインを発見。その一文を読んでみる。
「……たいていの有機物は、塩で茹でれば食える……。……」
ふと、記憶の片隅になにかがひっかかった。昨日、鮫島が言った――あまりちゃんと聞いていなかった言葉を思い起こし、まさか、と冷蔵庫を開いてみる。先ほど牛乳を取り出したときになにかを見つけた気はしていた。
果たして、
「お……おおぅ」
手鍋に山盛り作られたナニカを発見し、梨太はうめいて、しばらくそれを呆然を眺めていた。
彼と通信がつながって、梨太の第一声は深い謝罪。スティーブの返事は怒りを含む怪訝な声であった。
「おい、どういうことだ? 正念場のイベント二日目を早退しただなんて。コンテストも辞退、ダウンロードサイトも一時撤去だと?」
頷き、謝罪だけを繰り返す。スティーブの声音は熱量を増していく。
「ここにきてチームから抜けてしまいたいなんて。わけがわからないよ! 俺たちはリタに引っ張られてここまでやってきた。おまえがプロジェクトの発起人じゃないか!」
梨太は謝罪しかできない。
そして頼み込む。カメラに向かって頭を下げて、
「お願い、君にそれを継いでほしい……僕が抜けても、ドロップスを失くしたくはないから」
「はあ? おいおい、俺におまえの代わりが務まるかよ! いや、そもそも中身だってまだ」
「うん。だから、これからも仕事は僕がやる。やっぱり僕でなきゃ完成しないだろうから……ごめん、それも、ひどいことを言っているのはわかってる。だけど……」
「タダ働きしたいってか?」
彼は梨太への不信感を隠さず、その表情と口調に露わにし、梨太を睨みつけていた。何故だ、という問いに、梨太はひたすら謝罪と懇願だけを返し続ける。
「……なんとか言えよ……。それとも、嘘を並べないだけ、おまえの誠意だと思っていいのか」
スティーブの問いかけに、頷く。
「厚かましいことを頼んでいるのは、わかってる。僕は……一般公開の場には君に出てもらって、だけどプロジェクトには参加し続けたい……」
「それじゃあ、当たり前だけどドロップス開発の第一人者っていう実績も放棄することになるぞ。完成したら、これを基盤に博士号取りに行けるって言っていた。それを、なんで今更」
「いいんだ。仕方ないことだから」
スティーブは長い沈黙の後、低い唸り声を漏らす。それはその役目を億劫がっているのではなく、梨太の真意をはかりかね、自身の猜疑心を押さえ込む言い訳を考えているのだろう。
梨太はじっと、彼の結論を座して待った。
やがて、スティーブは首を縦に振った。
「……いいよ、リーダーとして、発表の場に顔と名前は貸してやる。だけど開発の最大功労者はお前だ。むやみに公言しなきゃ、学会にそう伝える分には構わねえんだろ」
梨太は深々と頭を下げ、再度の謝罪と、感謝の気持ちを伝えた。
スティーブとの通信を切ってからも、ほかの人間と同じような会話を繰り返す。いくつかのイベントで梨太が出るはずだったところを埋めてもらわなくてはならない。
ひとりひとり、頼み込む。
激怒する者もいた。次の瞬間、グループリストからユーザー名が消えていることもあった。
夏の空が暗くなりはじめ、だんだんろれつも回らなくなってきた。
そういえば昨日の昼、ステージの上で五分ばかり失神して以降一睡もしていないことを思い出す。どおりで頭痛なんてめずらしいことになるわけだ。
チカチカと点滅して見える画面に、ごめんなさいとお願いしますを吐き出し続けて――
「……もういいわリタ。それよりあなた、少し眠りなさい。顔が真っ白よ。アンリたちにはあたしから言っといてあげるから……」
優しい言葉に操られて、梨太は電源を落とした。そのままベッドへと倒れこむ。携帯電話が点滅し、いくつかのメッセージを受信した。
「おやすみリタ。愛してるよ」
梨太はようやく瞳を閉じた。
カーテンを開けたまま、寝てしまったらしい。目を覚ますと部屋はすっかり明るくなっていた。
たっぷり睡眠をとったおかげで、体はもうすっかり回復していた。鈍い頭痛も四肢の違和感も、きれいになくなっている。
あたりを見回す。
自室は、梨太が眠りにつく前と何らかわりない様子でそこにあった。
自室の扉を開けて出る。ちいさな足場から、まっすぐに下る階段。その先は玄関ポーチに突き当たる。白いタイル床に靴は無い。
玄関から見て右手がトイレ、その隣に洗面所。脱衣所と風呂場。
廊下を挟んで向かいに、リビング、ダイニング、キッチンまとまった大きな一部屋があった。
二十二畳のLDKは、来客の全員が「わあ、広い」と声を漏らす。
潔癖とまでいかない程度に掃除され、いつ誰がやってきても恥ずかしくないようになっていた。
快適なこの家は、初めての客もすぐにくつろいでくれる。
常備している、客用の飲み物。一人暮らしの男子らしからぬ食器の数。四人掛けのダイニングテーブルに、応接リビング。客用の布団。
すてきね。きちんとしてるんだね。梨太君はしっかりしてるね――誰もがそう言うこの家を、一度だけ嘲笑されたことがある。
「寂しいのか、北見信吾」
その男はそう言った。
「どれだけおまえが胸襟を開いたところで、もう家族が戻ってきやしないんだぞ」
(……あれは、誰に言われたんだったかな――)
静まりかえった広い部屋で、梨太はしばらく立ち尽くしていた。
覚醒した少年の体が空腹を訴える。梨太はとりあえず牛乳を取り、席につこうとして、ふと視線が止まる――テーブルの上、一番手前の椅子のあたりに数冊の書籍があった。
昨日、鮫島が枕にしていたものだ。なんとなく手にとって、表紙の字を読んでみる。
――やさしいにほんご。――にほんじんとともだちになろう!
――ひらがなドリル――対象年齢3歳~
――料理という概念――
最後の書籍をめくってみた。やたら大きな字で、一番はじめのページに注釈が入れられている。声に出して読み上げてみた。
「料理は愛情! しかし食えないものを人様に出すことは、断じて愛情なんかではない」
半眼になる。そのまま2、3ページめくってみる。
「初心者はレシピを遵守せよ。創意工夫、隠し味、材料代用は十年早い。どうしてもやりたければ独りでやれ。恋人に料理も自分も捨てられたくなければ、この本のいうことに100%従いなさい。美味しくしようなどと考えるな。食えるものを作る、まずはそこから。……この本おもしろいな」
牛乳を飲みながら読んでいくと、途中、カラーペンで囲まれた文字列を見つけた。鮫島が付けたものだろう。
「……米を洗剤で洗うのは論外。米は研ぐものである。※砥石を使って表面を削ることをいうことではない……」
さらにめくる。数ページあと、また、カラーペンのラインを発見。その一文を読んでみる。
「……たいていの有機物は、塩で茹でれば食える……。……」
ふと、記憶の片隅になにかがひっかかった。昨日、鮫島が言った――あまりちゃんと聞いていなかった言葉を思い起こし、まさか、と冷蔵庫を開いてみる。先ほど牛乳を取り出したときになにかを見つけた気はしていた。
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