鮫島くんのおっぱい

とびらの

虎ちゃんと犬居さん

 犬居は、小さな男だった。
 中肉中背。梨太よりは少し背が高い。実戦部隊でなくとも、訓練を受けた軍人だ。もちろん、梨太が喧嘩して勝てる気はしない。

 だが斬りこみ隊である虎と比べれば、体つきの差は大人と子供――いや、男と、女のようだった。

 目の前の犬居と周囲のバルゴ、視界にあるすべての敵を警戒しながら、虎は低い声で告げる。

「じっとしてろよ、犬居。俺は、軍人だ。邪魔するんならお前を倒してでも、リタを避難させなきゃならねんだぞ」
「口上が間違ってるぜ、虎。正しくはこうだ。
 『殺人未遂容疑者、現行犯で逮捕する。ラトキア騎士にはその義務と、抵抗するものには武力行使の権利がある。相手に武力がある場合、現場での殺害もまた可能である。逮捕されれば裁判で弁解の機会もあるが、騎士にはそれを聞く義務はない』……」
 そこまで言って、犬居が鼻を鳴らした。
「コトバが難しければ、もっと短くしてやろうか。抵抗したら殺す、と。そっちのほうが、お前が言うには似合っているな」
「犬居」

「……なにを、いいひとぶってやがる。さっさとやろうぜ。なにをどう説得されたって、俺がこのクソガキを嫌いってのは変わらない。ついでに虎、てめえのことも大嫌いだ」

 少年が眉を跳ね上げた。梨太は何となくその表情を窺ったが、苦痛というより、ただたんにきょとんとしている。虎は真実なんにも忌憚のない口調で、よく似た髪をした同僚に、明日の天気でも聞くように聞き返した。

「えっ、なんで? 俺、お前のこといじめたことないじゃん」
 たぶんそういうところじゃないかなあ、と思った梨太の予想ははずれた。

 犬居自ら、虎に向かって叫ぶ。
「黙れクズ。お前もそいつの同類だ。無責任に女をはらませて、放り出して悪びれもしないっ」
「あ? なんだそりゃ。合意の上だっつの。悪いことしてねえんだから悪びれるわけねえだろ」
 即座に怒鳴り返してから、ちょっとトーンを落として追記した。

「……つか放り出されたの俺だし。居場所もわかんねえし、実家おしかけてみたら親に狙撃されたし」
「合意……ほんとにあったのかなあ」
 梨太が呟く。それを聞いてもやはり悪びれない虎。彼の主観としては間違いなく同意だったのだろう。
 もうちょっと突っ込んでみたい気がするのを、犬居が嘲笑した。

「バカが。赤い髪の男が、青い髪の女と結婚が許されるわけねえだろ。奴隷と姫君だぞ。お前の一番むかつくとこは、その身の程知らずなところだよ」

 犬居は片手にあの黒刀を下げていた。
 麻酔刀――およそ七年前、鮫騎士団長が提言し、烏ら、ラトキア軍科学班によって開発されたという対人兵器。

 特殊な周波の電気信号なる電撃により、人間の脳を一瞬にして睡眠状態にする。殺傷能力はないに等しく、鮫島曰く、武器ではない――しかし、これほど強力な武器はない、というのが事実であった。峰打ちでも、気勢が乗っていなくても、急所を打たずとも一瞬で昏倒させる。戦場においてそれは即死以上の効果をもたらす。金品強奪、陵辱はもちろん、捕虜としていいように運ばれてしまう。殺意があれば昏倒中、その喉頸に細いナイフを立てられればそれで死ぬ。
 強力な分、簡単に扱える武器ではない。また、手に入れるのも困難だろう。使えるのはラトキアの騎士だけ。
 ゆえに騎士団は、この武器への対抗手段を研究していなかった。

「虎……強くなったな。おなじ武器でやりあって、俺がお前に勝てるとは思ってない。だけどこの麻酔刀があれば……」

 犬居は腰を落とし、だらりと腕を垂らした。麻酔刀の切っ先はほとんど地面に触れるほど低くなる。あの刀は、大きさの割に異常に重い。腕力で振るのではなく、ああしてぶらさげて、腰の回転で薙ぐものなのだ。

 虎は左手の刃と右の拳、両方を震わせた。できれば拳で討ちたい。だがもしその腕を麻酔刀で払われたら、失神してしまう。梨太の視界で、虎の喉仏が縦に動いた。唾を飲み下し、彼は賢明に思考を疾走させていた。

「くそっ――俺ひとりだったらなあ……」
 虎のつぶやきに、犬居は眉を上げた。
「……いいんじゃないか? きっと蝶あたりなら、ガキを庇って殺されるよりも、獣に食わせて自分だけ生き延びるぞ」
「俺ァ蝶とは別の人間なんだよ」

「そうだな。そして俺とお前も別の人間。騎士という職業がたまたま同じ、髪の色、出身地、同じなのはたったそれだけ」
 犬居は笑った。どこかさみしげに。

 その背中、両側から一頭ずつバルゴが飛び出してきた。オウと一声吼え、二匹の顎が、リタのほうへと飛びかかる!
「わっ!?」
 虎はすぐさま剣で薙ぐ。
 だがもう一頭、梨太の胸にぶつかってきた。転倒し、あおむけになった喉に向け牙を剥いてくる。
「リタ! 殺せ!」
 わかっている。ここで躊躇するほど優しくなんかない。だが寝ころがったまま持ち上げようとした短剣は、想像を絶するほどに重たかった。握力が稼働しない。腰に力が入らない。手が動かない!

 眼前に牙が迫る。――恐ろしい!

 虎が武器を投げ、梨太に被さる獣を真上から捕まえた。両前足を掴んで投げ飛ばす。二メートル近く投げられたバルゴは、着地するなり再度飛び掛かってきた。剣がない。虎が絶叫した。

「くそったれがッ!」
 まともに体当たりを食らい、虎の細長い体がぐらりと揺れた。機を見て取って、すぐさま五頭もの獣が襲ってくる。
「うおあっ!」

 梨太同様、倒れ込んだ赤毛の少年。喉元を庇う腕にいくつもの獣の牙が立つ。バルゴ一頭の体重はせいぜい二、三〇キロ。だが仰向けのところに五頭が集えば、騎士とて身を起こせる重量ではない。

 虎が倒れ込むと、可笑しいくらいにバルゴは彼へと集中した。梨太には見向きもしなかった。同胞を何頭も切り裂いたのは虎だ。刃を失くした少年の喉笛を、我先にと争う牙と爪。

「やめっ――いやだ! やめろ!」

 獣に向かって叫びながら、梨太は剣を探した。闇夜の土に落ちているはずの、二本の短剣。虎の刃。
 虎ちゃん、虎ちゃんと呟きながら短剣を探す。見当たらない。視界に入らない。視認できない。理解できない。
 顔を庇う、虎の手。その、骨ばった指先の、本数が、すでに減っている、のは、ただの見間違い――?

 梨太は顔を上げた。

 五頭の食事を見守るように、取り囲むバルゴ。泰然とたたずむ犬居。
 視線を空き地の奥へ。
 猪と蝶、背中合わせになり、なんとか凌いでいる。二人とも足をやられている。その距離はたったの二十メートル。だがその間に、やはり黒い獣がいる。
 梨太はこぶしを握った。

「助け……たすけて、鮫島くん」

 漏らした声は儚く、小さなものだった。目の前の犬居すら聞こえないほどに。

 だが神にはそれが届いたらしい。星のきらめく夜の空、はるか天空から、傲然とした女神の声が降る。

「――お待たせ! みんな生きているか!?」

 女神はピンク色のクジラの中にいた。手のひらに余るほどの大きさの、雑貨のような浮遊物は、まさに全力疾走してきたように激しくブレながら、リタの上空で旋回する。
 全員が一瞬手を止めて、そこにある星帝皇后のモニターを仰ぐ。
 惑星最高の地位を持つ女は、民の期待を裏切らない。
 明るい声で告げた。

「鮫騎士団長を連れてきた! もう大丈夫だ!」

 そして――夜闇から、その黒よりもなお暗く、艶やかな黒髪をもつ女が一人、足音もなく現れた。
 息をのむ一同。犬居もまた、黒刀を納めて目を見開く。
 虎にかぶりついていた五頭、取り囲んでいた獣たちも皆、ぴたりと動きを止めた。静かにたたずむ美女が、この世の誰よりも脅威だと知って。

 人間たちは、獣とは全く違う意味で呆然としていた。
 梨太もまた口を開け、惑星最強の英雄を見つめて。
 思わず、腹の底から、低い声で呻いた。

「……さ……さめじまくん?」

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