鮫島くんのおっぱい
獣の始祖
間近で見た蝶の武器、梨太の背丈近くもある長刀は、日本刀をさらに細身にしたような形をしていた。三日月に似た鋭い刃。薄刃だが、刀身の長さが重量を生む。
なるほど、これ以上なく切れ味はよさそうだが、今はもう見る影もなく鈍っていた。なにせ切っ先が折れている。刃こぼれのなかに獣の血と脂がはりついて、素肌すら切れないのではなかろうか。
だが、鮫島が言う「ただの鈍器」で済むとも思えなかった。なにせ扱うのが彼――惑星最強の英雄。
十五歳の少女の体をもって、単身、百五十もの人間を皆殺しにしたという。梨太は正直、この話を眉唾物だと思っていた。生来温厚な彼が、老若男女全員の命乞いも聞かず殲滅したというのが信じられない。
しかし――
巨大な刃の塊を、片手で据える美女。その切っ先は赤い髪の青年へ向けられた。その刃先になんの躊躇もない。梨太は叫んだ。
「待って! 鮫島くん――犬居さんの敵は僕だけだ。犬居さんに、騎士団や君と闘う意志はない!」
鮫島の耳には届いたはずだ。彼は返事はしないまま、犬居へ、視線で確認した。肩をすくめる犬居。
「あなたが軍人になって、十年と少し。俺もそれより少しあとだけど、気が付くと十年近くになった。お互い、知った顔を首から斬り落としたことはあるでしょう。遠慮することはないですよ」
「……リタの前だ。命は取りたくない」
「なるほど」
犬居は鼻で笑った。そして、ぶら下げていた麻酔刀をぽろりとその手から落とした。湿った土に落ちる金属塊。両手を上げ、斜に構えた微笑みを向ける。
「はい、投降します。いくらなんでもあんたに勝てるなんて思っちゃいない」
「鮫、もういい! 手錠を!」
叫んだのは鯨だった。言われるまでなく鮫島が長刀を引く。両者の緊張感は解かれぬままだが、とりあえず殺し合いはしないらしい。梨太は全身の力を抜いて、その場にへたり込んだ。
戦闘を覚悟していた騎士団は半ば拍子抜けしたように、安堵していた。やはり彼らにも斬りたくないものはあるのだ。
猪が手錠を持ち出し、鮫島が犬居に掛ける。目を背けたい光景ではあるが、血が流されずに済んだことにほっとするべきだろう。
ふと、梨太は鮫島の態度に違和感を覚えた。犬居の拘束をおこなう手が、あまりにも淡々としすぎていないだろうか。軍人として、騎士団長として、職務に割り切っているのはわかる。だけどそれにしたって、あんまりにも――
同じことを、虎も考えていたらしい。金色の瞳が、どこか恨みがましく己の長を睨んでいた。それでも鮫島の手は震えない。
「あの、鮫島くん」
梨太の言葉をみなまで聞かず、
「俺は軍人だからな」
鮫島が答える。
「俺は軍人だから。感情に揺れて、躊躇をして、無駄な時間をかけるより、やらなくてはいけないことがある」
そして、あっさり背中を向けてしまう。
その意識はもう、犬居には欠片もむけられず。梨太や騎士団すらも飛び越えていた。
視線を空き地の奥のほう、闇の中へ向けている。
かすかに青みがかった黒い瞳。深海色の双眸が、最奥でうごめく獣を見据える。
――全員が、そこで初めて気が付いた。
闇夜の中、のそりと大きな塊が動き出す。壁が動いたようだった。空き地の最奥は、暗闇に飲まれて見えていた。だがそれは、完全に誤認であった。
「な、なにか、いる……?」
梨太がバルゴを呼び、心地よい巣穴を提供したその場所に、巨大な物体があったのだ。
脂で濡れたような毛並、四足の、イヌによくにたいびつな体躯。一頭のバルゴ――体長四メートルからなる、巨大な野獣であった。
鮫島は白く長い足を踏み出した。刃の毀れた長刀を、まっすぐ正面、獣に向けて。
「なによりまず、俺この獣を倒さねばならない。――犬居のことを、泣くのはあとだ」
お前たちは休んでいろと、鮫島は部下たちに言いつけた。言われるまでもなくもう誰も動けなかったが。
ひとり、闇の中を進む鮫島。
成人男性にも劣らぬ長身に、しなやかな肢体。白く美しい肌は銀月のようにうっすら輝き、夜の町に浮かび上がってすら見える。
「かかってくるといい。その図体だ、いくら食べても食べたりないだろう。一般に、食人獣は女性のほうを好んで食べると聞く。ならばこの場の誰よりも、俺に惹かれるはずだ」
鮫島の、顔がたちは確かに端正である。だが彼の美しさはそういったものとは関係がないように思えた。
あまり似合ってはいない洋服でも、ショートパンツから伸びる長い足だけはさすがの見物である。刀身が背丈の半分ほどある長刀を携える、彼の体こそひとつの鋭利な刃のようだった。
緩慢な動きで、獣が身を起こす。
巨大――四足で立ち上がった頭の位置は、鮫島の背丈よりも上にある。尾はいまだ、巣穴の中に埋もれているらしかった。土まみれということは、やはりこいつも、巣穴の中にいたのだろう。このサイズではほとんど地下洞窟だっただろうが。獣が出てきたせいで、巣穴入口は完全に決壊していた。
「……この大きさは……始祖の一頭だ」
呟いたのは鯨だった。
「三十年前、オーリオウルから持ち込まれた二頭のつがい……そのうちの一頭」
「それって、このあいだ、お好み焼きプラザのとこで鮫島くんが戦ったやつ。の、ええと、オスかメスか」
「そうだ。あれと同サイズの大物がいるのは予測していたが、こんなところにいるとはな」
梨太と鯨が話していても、獣はまだ動かない。
その場にいるバルゴは、強く警戒し牽制のうなり声をあげながらも、こちらへ飛び掛かる様子はなかった。
鮫島は、しばらく獣の動きを待った。だがにらみ合いは果てしなく続くだけと判断し、ゆっくりと歩き進む。
その後ろで、虎がふるえながら身を起こした。
鮫島がすかさず声を張る。
「虎、休んでおけ。指先のその怪我は、出血が激しい。下手に動くと死ぬぞ」
「……了解」
「獣は弱っているものから喰らう。目に付かないようにしておけ。猪、蝶、動けるか。それぞれが虎と梨太を庇え。鯨は犬居の見張りを。闘うのは俺ひとりでいい」
「了解」
二人の騎士は視線で示し合わせると、蝶が虎のほうへ移動した。
(……これが、騎士団のいつもの連携)
彼らの様子に、梨太は眉をしかめる。
一番強い敵の正面に、いつも鮫島ひとりが立つ。
これが騎士団、最強の陣形。
「どうした、こないのか」
いつまでも動きのないバルゴに向けて、鮫島は口元に笑みを浮かべた。長刀をぶらさげて泰然と歩み寄る姿。己より数倍の体躯をもつ獣を、まるで雑魚でもつり上げたような表情で見上げる。
ウウウ。バルゴが後ろ足を引いた。
巨大な体が、弦の引かれた弓矢のように力を蓄えて敵を狙う。そこにむかって、鮫島は正面から対峙した。
ゆっくりと足を前に出し――それを思いきり踏み抜いた。
ちょうどそこには堅い敷石があったらしい、サンダルの底に叩かれ、空気がはじける高い音。
バルゴの全身が跳ねる。緊張状態にあった獣は繰り糸を引かれたように躍動した。反射的に攻撃態勢をとり、巨躯をまっすぐに走らせる。
正面、鮫島は真横に避けた。直進しかできない獣は、美女のからだを一メートルほど通り過ぎ、きびすを返そうと身をよじる。そのわずかな停止時間に、鮫島は下段から長刀を振り上げた。切っ先が獣の喉を裂く。
毀れた刃を、彼は圧を駆けながら引いていた。ノコギリに削られ、あがる血飛沫。
だがやはり、頸動脈切断までは至っていない。獣は悲鳴を上げながらもそのまま体勢をととのえ、再び顎を開いて食いつきにかかった。
その頃には騎士はもういない。バルゴの体を駆け上り、獣の背にまたがっていた。
真上から刀を差し込む。刀身が一気に根本近くまで埋もれた。
「あっ、あんなことしたら、抜けなくなるっ――」
虎の叫びは、途中で飲み込まれた。鮫島は身を翻すと、下方側面から柄にぶら下がり、両足の力で一気に引き抜いた。そのまま蹴り跳ね、宙返りで着地する。
地面で再び構えた長刀には、ほとんど血がついていなかった。
なんで? という疑問符をわかりやすく顔面に張り付けた虎に、蝶が吐き捨てる。
「間接の、軟骨だけねらって刺したんだよ。だから筋肉にも挟まれないし出血も少ない。ぼろぼろの刀だって、あれだけ勢い付けてぶっさせば針も同然さ。
脂肪も切ってないから、これ以上刀の切れ味も落ちない。そしてダメージは最大」
バルゴは己の身に何が起こったか理解が遅れていた。右前足が脱臼したように脱力し、バランスを崩して突っ伏した。顎を地面につけてから、左足だけでなんとか四つん這いの姿勢へと持ち直す。
力をなくした右足のそばで、鮫島は、ふぅむと小さくつぶやいた。
「切り落としてやろうとねらったがさすがに大きい。この武器と俺の体重じゃ無理のようだ」
「団長殿っ」
猪が呼びかけ、己の獲物を投げてよこした。戦斧よりも扱いやすさに長けた手斧――といっても、丸太を叩き割れる鉄塊である。空中で受け取って、鮫島は長刀を腰へ戻した。
「鮫島くん、あんな武器も使えるの……」
先ほどまで巨漢が携えていた鉄塊を構える女。梨太はそれだけで胸が締め付けられる。
鮫島は、さすがにそれを腕力で振り回しはしなかった。ぶらりと足下に下げて、自身に密着させる。己と鉄塊を一体化させたまま、後ろ向きに跳ねて距離を取った。
片足の機能を無くしたバルゴの、唯一の武器は首の伸縮範囲でのかみつきだ。サイズがサイズなので、その攻撃範囲は思いのほか広い。
鮫島は空き地を飛び出すまで離れると、長い足を畳んで屈し、垂直に飛んだ。空き地を囲むブロック塀へ乗り上げる。
バルゴが左足を軸に、倒れ込むように牙を剥く。鼻先の軌道に鮫島。しかしやはり、その愚直な攻撃は騎士団長には全く通用しなかった。彼は、自分の足の裏よりはるかに狭い幅の上で再び飛び上がり、今度はさらに高所となる人家の屋根に移った。高さ5メートル――獣の頭よりずっと高い位置で、斧を構え――
梨太の視線上を、銀色の閃きが光線のように突き抜けた。猪の投擲。手のひらほどの小さなナイフは十本近くあっただろう、夜闇を裂いてバルゴの体へ吸い込まれていく。それはなんらダメージを与えられなかった。巨大な獣の、せいぜいそちらへ気を向けるほどの刺激。
バルゴは一吼えすると、全身を猪の方へ向けて牙を剥き――
その肩に、鮫島の体重を丸ごと乗せた斧をくらい、左前足を失った。
なるほど、これ以上なく切れ味はよさそうだが、今はもう見る影もなく鈍っていた。なにせ切っ先が折れている。刃こぼれのなかに獣の血と脂がはりついて、素肌すら切れないのではなかろうか。
だが、鮫島が言う「ただの鈍器」で済むとも思えなかった。なにせ扱うのが彼――惑星最強の英雄。
十五歳の少女の体をもって、単身、百五十もの人間を皆殺しにしたという。梨太は正直、この話を眉唾物だと思っていた。生来温厚な彼が、老若男女全員の命乞いも聞かず殲滅したというのが信じられない。
しかし――
巨大な刃の塊を、片手で据える美女。その切っ先は赤い髪の青年へ向けられた。その刃先になんの躊躇もない。梨太は叫んだ。
「待って! 鮫島くん――犬居さんの敵は僕だけだ。犬居さんに、騎士団や君と闘う意志はない!」
鮫島の耳には届いたはずだ。彼は返事はしないまま、犬居へ、視線で確認した。肩をすくめる犬居。
「あなたが軍人になって、十年と少し。俺もそれより少しあとだけど、気が付くと十年近くになった。お互い、知った顔を首から斬り落としたことはあるでしょう。遠慮することはないですよ」
「……リタの前だ。命は取りたくない」
「なるほど」
犬居は鼻で笑った。そして、ぶら下げていた麻酔刀をぽろりとその手から落とした。湿った土に落ちる金属塊。両手を上げ、斜に構えた微笑みを向ける。
「はい、投降します。いくらなんでもあんたに勝てるなんて思っちゃいない」
「鮫、もういい! 手錠を!」
叫んだのは鯨だった。言われるまでなく鮫島が長刀を引く。両者の緊張感は解かれぬままだが、とりあえず殺し合いはしないらしい。梨太は全身の力を抜いて、その場にへたり込んだ。
戦闘を覚悟していた騎士団は半ば拍子抜けしたように、安堵していた。やはり彼らにも斬りたくないものはあるのだ。
猪が手錠を持ち出し、鮫島が犬居に掛ける。目を背けたい光景ではあるが、血が流されずに済んだことにほっとするべきだろう。
ふと、梨太は鮫島の態度に違和感を覚えた。犬居の拘束をおこなう手が、あまりにも淡々としすぎていないだろうか。軍人として、騎士団長として、職務に割り切っているのはわかる。だけどそれにしたって、あんまりにも――
同じことを、虎も考えていたらしい。金色の瞳が、どこか恨みがましく己の長を睨んでいた。それでも鮫島の手は震えない。
「あの、鮫島くん」
梨太の言葉をみなまで聞かず、
「俺は軍人だからな」
鮫島が答える。
「俺は軍人だから。感情に揺れて、躊躇をして、無駄な時間をかけるより、やらなくてはいけないことがある」
そして、あっさり背中を向けてしまう。
その意識はもう、犬居には欠片もむけられず。梨太や騎士団すらも飛び越えていた。
視線を空き地の奥のほう、闇の中へ向けている。
かすかに青みがかった黒い瞳。深海色の双眸が、最奥でうごめく獣を見据える。
――全員が、そこで初めて気が付いた。
闇夜の中、のそりと大きな塊が動き出す。壁が動いたようだった。空き地の最奥は、暗闇に飲まれて見えていた。だがそれは、完全に誤認であった。
「な、なにか、いる……?」
梨太がバルゴを呼び、心地よい巣穴を提供したその場所に、巨大な物体があったのだ。
脂で濡れたような毛並、四足の、イヌによくにたいびつな体躯。一頭のバルゴ――体長四メートルからなる、巨大な野獣であった。
鮫島は白く長い足を踏み出した。刃の毀れた長刀を、まっすぐ正面、獣に向けて。
「なによりまず、俺この獣を倒さねばならない。――犬居のことを、泣くのはあとだ」
お前たちは休んでいろと、鮫島は部下たちに言いつけた。言われるまでもなくもう誰も動けなかったが。
ひとり、闇の中を進む鮫島。
成人男性にも劣らぬ長身に、しなやかな肢体。白く美しい肌は銀月のようにうっすら輝き、夜の町に浮かび上がってすら見える。
「かかってくるといい。その図体だ、いくら食べても食べたりないだろう。一般に、食人獣は女性のほうを好んで食べると聞く。ならばこの場の誰よりも、俺に惹かれるはずだ」
鮫島の、顔がたちは確かに端正である。だが彼の美しさはそういったものとは関係がないように思えた。
あまり似合ってはいない洋服でも、ショートパンツから伸びる長い足だけはさすがの見物である。刀身が背丈の半分ほどある長刀を携える、彼の体こそひとつの鋭利な刃のようだった。
緩慢な動きで、獣が身を起こす。
巨大――四足で立ち上がった頭の位置は、鮫島の背丈よりも上にある。尾はいまだ、巣穴の中に埋もれているらしかった。土まみれということは、やはりこいつも、巣穴の中にいたのだろう。このサイズではほとんど地下洞窟だっただろうが。獣が出てきたせいで、巣穴入口は完全に決壊していた。
「……この大きさは……始祖の一頭だ」
呟いたのは鯨だった。
「三十年前、オーリオウルから持ち込まれた二頭のつがい……そのうちの一頭」
「それって、このあいだ、お好み焼きプラザのとこで鮫島くんが戦ったやつ。の、ええと、オスかメスか」
「そうだ。あれと同サイズの大物がいるのは予測していたが、こんなところにいるとはな」
梨太と鯨が話していても、獣はまだ動かない。
その場にいるバルゴは、強く警戒し牽制のうなり声をあげながらも、こちらへ飛び掛かる様子はなかった。
鮫島は、しばらく獣の動きを待った。だがにらみ合いは果てしなく続くだけと判断し、ゆっくりと歩き進む。
その後ろで、虎がふるえながら身を起こした。
鮫島がすかさず声を張る。
「虎、休んでおけ。指先のその怪我は、出血が激しい。下手に動くと死ぬぞ」
「……了解」
「獣は弱っているものから喰らう。目に付かないようにしておけ。猪、蝶、動けるか。それぞれが虎と梨太を庇え。鯨は犬居の見張りを。闘うのは俺ひとりでいい」
「了解」
二人の騎士は視線で示し合わせると、蝶が虎のほうへ移動した。
(……これが、騎士団のいつもの連携)
彼らの様子に、梨太は眉をしかめる。
一番強い敵の正面に、いつも鮫島ひとりが立つ。
これが騎士団、最強の陣形。
「どうした、こないのか」
いつまでも動きのないバルゴに向けて、鮫島は口元に笑みを浮かべた。長刀をぶらさげて泰然と歩み寄る姿。己より数倍の体躯をもつ獣を、まるで雑魚でもつり上げたような表情で見上げる。
ウウウ。バルゴが後ろ足を引いた。
巨大な体が、弦の引かれた弓矢のように力を蓄えて敵を狙う。そこにむかって、鮫島は正面から対峙した。
ゆっくりと足を前に出し――それを思いきり踏み抜いた。
ちょうどそこには堅い敷石があったらしい、サンダルの底に叩かれ、空気がはじける高い音。
バルゴの全身が跳ねる。緊張状態にあった獣は繰り糸を引かれたように躍動した。反射的に攻撃態勢をとり、巨躯をまっすぐに走らせる。
正面、鮫島は真横に避けた。直進しかできない獣は、美女のからだを一メートルほど通り過ぎ、きびすを返そうと身をよじる。そのわずかな停止時間に、鮫島は下段から長刀を振り上げた。切っ先が獣の喉を裂く。
毀れた刃を、彼は圧を駆けながら引いていた。ノコギリに削られ、あがる血飛沫。
だがやはり、頸動脈切断までは至っていない。獣は悲鳴を上げながらもそのまま体勢をととのえ、再び顎を開いて食いつきにかかった。
その頃には騎士はもういない。バルゴの体を駆け上り、獣の背にまたがっていた。
真上から刀を差し込む。刀身が一気に根本近くまで埋もれた。
「あっ、あんなことしたら、抜けなくなるっ――」
虎の叫びは、途中で飲み込まれた。鮫島は身を翻すと、下方側面から柄にぶら下がり、両足の力で一気に引き抜いた。そのまま蹴り跳ね、宙返りで着地する。
地面で再び構えた長刀には、ほとんど血がついていなかった。
なんで? という疑問符をわかりやすく顔面に張り付けた虎に、蝶が吐き捨てる。
「間接の、軟骨だけねらって刺したんだよ。だから筋肉にも挟まれないし出血も少ない。ぼろぼろの刀だって、あれだけ勢い付けてぶっさせば針も同然さ。
脂肪も切ってないから、これ以上刀の切れ味も落ちない。そしてダメージは最大」
バルゴは己の身に何が起こったか理解が遅れていた。右前足が脱臼したように脱力し、バランスを崩して突っ伏した。顎を地面につけてから、左足だけでなんとか四つん這いの姿勢へと持ち直す。
力をなくした右足のそばで、鮫島は、ふぅむと小さくつぶやいた。
「切り落としてやろうとねらったがさすがに大きい。この武器と俺の体重じゃ無理のようだ」
「団長殿っ」
猪が呼びかけ、己の獲物を投げてよこした。戦斧よりも扱いやすさに長けた手斧――といっても、丸太を叩き割れる鉄塊である。空中で受け取って、鮫島は長刀を腰へ戻した。
「鮫島くん、あんな武器も使えるの……」
先ほどまで巨漢が携えていた鉄塊を構える女。梨太はそれだけで胸が締め付けられる。
鮫島は、さすがにそれを腕力で振り回しはしなかった。ぶらりと足下に下げて、自身に密着させる。己と鉄塊を一体化させたまま、後ろ向きに跳ねて距離を取った。
片足の機能を無くしたバルゴの、唯一の武器は首の伸縮範囲でのかみつきだ。サイズがサイズなので、その攻撃範囲は思いのほか広い。
鮫島は空き地を飛び出すまで離れると、長い足を畳んで屈し、垂直に飛んだ。空き地を囲むブロック塀へ乗り上げる。
バルゴが左足を軸に、倒れ込むように牙を剥く。鼻先の軌道に鮫島。しかしやはり、その愚直な攻撃は騎士団長には全く通用しなかった。彼は、自分の足の裏よりはるかに狭い幅の上で再び飛び上がり、今度はさらに高所となる人家の屋根に移った。高さ5メートル――獣の頭よりずっと高い位置で、斧を構え――
梨太の視線上を、銀色の閃きが光線のように突き抜けた。猪の投擲。手のひらほどの小さなナイフは十本近くあっただろう、夜闇を裂いてバルゴの体へ吸い込まれていく。それはなんらダメージを与えられなかった。巨大な獣の、せいぜいそちらへ気を向けるほどの刺激。
バルゴは一吼えすると、全身を猪の方へ向けて牙を剥き――
その肩に、鮫島の体重を丸ごと乗せた斧をくらい、左前足を失った。
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