鮫島くんのおっぱい

とびらの

戦いの終わり

「やったっ――!」
 蝶が小さく叫ぶ。

 鮫島は手斧の背に両足裏を乗せ、上空からの勢いも足して、獣の肩付け根めがけて垂直に落下してきた。その攻撃力は、ひとの膂力で振り回した斬撃など比べものにならない。薪割りのようにまっぷたつとは行かないが、獣の前足はほとんどその肉を切り離されて、皮一枚でぶら下がっている有様。
 さきほど間接から断ち切られた右手と合わせて、もう用をなさない。

 両前足を失った四足歩行の獣は、前のめりに突っ伏す。柔らかい土に顎先をつけ、這いつくばって呻いていた。
 傍らに、鮫島が着地する。鉄の斧と長刀を携え、重量を増した女の足が地面に降り立つ。オレンジ色のサンダルが、ぬかるんだ土に27センチの足跡を付けた。

「……ひとりで勝っちまった。くっそ強ぇ……」
 虎の声。本日何度目かの、呆然とした呟きであった。

 誰もが勝利を確信していた。
 突進することでしか攻撃のできない獣から足を奪ったのだ。事実、バルゴはもう戦意を喪失しているようだった。赤い眼は力をなくし、圧倒的な強さで己を伏した騎士をただ見上げている。

 この獣が、ヒトならば。

 騎士たちはむやみに命を奪うことはないだろう。怪我の介抱まで行って、逮捕し、裁判に掛けて罪状を言い渡す。だが彼らは獣を殲滅するために地球に来た。鮫島は斧を置き、再び長刀を抜いた。そこに這う獣の首に突き立てるために。

(このバルゴの罪は、なんだろう)
 梨太はそんなことを考えた。

 故郷から連れ去られ、見知らぬ土地で売買され、理想と違うと捨てられた。殺処分、という最後の責任すら放棄され、誰かの胸に罪悪感を残すこともできず、何事もなかったかのように忘れられている。
 バルゴらがこの地球へやってきておよそ二十年。その間この霞ヶ丘で、獣がヒトを食ったというニュースは聞かなかった。山の中で小動物や実りを食い、ひそかに生き延びていたのだろう。山を追われ、町に降りて、地下に潜みゴミなどを漁る。それではもちろん足りなくて、外飼いの犬や野良猫を襲い、やがてはヒトにかぶりついた。

 だがそれが悪いことなのか。
 彼らはただ、生きていただけ――

(そうして生きるしかなかっただけ)

 首を切られたバルゴは、騎士を恨むことはないだろう。まして後悔などするまい。弱肉強食に負けた獣は無言で死んでいく。殺される覚悟で牙を剥いたのだ。

(生きるために、闘おうとしただけ――)
 梨太は黙って唇をかんでいた。

 騎士団長がとどめを刺すまで、騎士たちはみな獣の口元を見ていた。あの牙が再び鮫島に向けられた瞬間、援護するために、その動向を見つめている。
 梨太だけが、獣の瞳を見ていた。あの赤く禍々しい眼が、絶命により瞳孔が揺れるまで見届けようと思った。もしも涙を流したのなら、それを受け止めてやりたかった。

 鮫島の刀が、バルゴの首に差し込まれる。急所をつんざき、バルゴの全身がこわばった。赤い眼が見開かれ、一瞬にして死体の眼球へと変わる。
 その直前、かの瞳は、涙など流さなかった。
 ただ梨太の後ろを見た。

 そこにある巣穴から飛び出した、妻の姿を見ていた。

 四メートル級の雄のつがいとしては小さく感じる。それでも小型の馬ほどはある体躯。
 巨大な死骸の影になり、その雌バルゴの疾走はあまりにも唐突で、あまりにも俊敏であった。音もなく土を走り、鮫島の横を弾丸のように突っ切っていく。

 裂けるほどに大きくひらいたあぎとが、巣穴からもっとも遠くにいた、梨太の体をくわえた。

「えっ――」

 ゴギリ。獣の顎が、己の肋骨をかみ砕く音が聞こえた。

「リタ君!」
 最初に叫んだのは鯨。
 最初にかけだしたのは鮫島。
 彼は獣より迅く地を駆けて、長刀を下段から掬い、獣の顎を切り落とそうと試みた。すんでのところで獣が顎を引く。

 獣はこれまでのバルゴたちと全く違う行動をとった。騎士達を一切相手にせず、梨太の体を咥え逃走しようとしている。

 もう一度、鮫島の剣戟。背を向けて疾走する獣に刃を当てるのは難しい。気勢も乗らぬままに、鈍った刃は獣の背を叩いただけで傷つけられない。
 それでも痛みはあったはずだ、だがバルゴはひたすら逃げた。空き地の外、道路まで。
 くの字にぶら下げられた、梨太の頭髪がアスファルトをこする。その腹部から血がはねた。

「リタ!」
 鮫島が絶叫した。

 夏の夜道が梨太の血と獣の涎で濡れている。

 騎士達も追いかけようとはしながらも、痺れた足がおぼつかない。なにより、次の行動を躊躇していた。獣の顎を開かせるのは難しい。下手に少年を奪還しようとすれば、それが致命傷になりえる。獣の足は、少年を咥えてなお速く、飛び道具はリタに当たりそうだ。どうすれば――

 鮫島が両手の武器をすて、獣に飛びついた。真上から被さり、抑え込む。
 人間の体重を受け、さすがにバルゴは膝を折った。だがすぐに体勢を直す。顎も離さない。
 鮫島は体重と腕力で、ひたすら単純に、獣と戦った。腕をからめて首を絞め、躍動する前足を掴んでひっくり返し、自分の体ごと地面に転倒させた。頑健な脚を掴み、なんとか仰向けにする。剥き出しになったバルゴの腹に、彼は思い切り膝を立てた。

 吐瀉物とともに、梨太が吐き出される。アスファルトに転がる少年。

「リタ!」
「リタ殿! 生きておられるか!」
 騎士団が駆け寄る。
「っく……」
 梨太は身をよじり、呻いた。とりあえず命があることにほっとする騎士達。その気配は感じながらも、笑みまで返す余裕はない。
「だ、いじょうぶ……」
 それだけなんとか、言葉にして見せた。

 あれだけガッチリと噛みつかれても、牙が体に刺さってはいなかった。鋭い前歯部分が腹部を裂いたが梨太の体は歯列よりも奥、奥歯があるべき部分に生えた、クジラの髭板のような繊維質の毛によってやわらかくくるまれていた。ダメージは顎による圧迫だ。肋骨が噛み砕かれ、激痛に声も出ない。

「ぎっ……」
 痛みと恐怖で失神してしまいそうになる。かすんだ視界に、白い光が見えた。

「リタ。リタ! ……リタ!」
 白い――蒼白に血の気を引いた、女の顔だ。それもとびきり美人。

 夜空と同じ色をした、切れ長の瞳が潤んでいる。

「生きてる? 痛い? ごめん――守るって言ったのに。今度こそ、俺が守るって言ったのに。また怪我をさせてしまった。リタ。リタ……」

 ごめんなさいと、謝罪の声。

 なぜ鮫島くんが謝るの。
 謝るのは僕のほうなのに――

 その言葉は声にならなかった。

 浅い息のまま脱力した梨太を、鮫島は猪に任せて、立ち上がる。
 五メートル向こうで獣が吼えている。四足で立ち上がり、ワンワンとイヌそっくりの鳴き声で、彼女は鮫島を呼んでいた。
 腹部を打たれ、その足元はおぼつかない。
 自分よりはるかに大きい夫を殺した女である。勝てる気はしないはずだ。
 それでもこっちへ来いと、殺戮者を呼び寄せる。

 鮫島は、誘われるままに足を踏み出した。武器は何もない。
「団長」
 声をかけたのは猪だった。彼は回収してきた手斧を鮫島に手渡そうとした。だが鮫島の顔つきを見た途端、ビクリを身をすくめて腰を引く。青ざめた巨漢が視界に入っても、鮫島はそれを視認することはなかった。亡霊のようにすり抜けて、獣との距離を詰めていく。

 獣が、踵を返そうと後ろ足に力をためた。瞬間、美女は一気に駆けた。バルゴ星の原生生物、イヌ型クリーチャー、バルゴ。ちょうど自分の肩ほどの、獣の顔面にむけ、美女はその白い拳を振り上げて――

「――よくも、リタを傷つけたな」

 ごっ。
 拳骨が、獣の横顔を打ち付ける。
 鮫島の握りこんだ拳は、少年の脇腹を噛み砕いたその顎を強打し、獣の頭蓋骨ごと粉砕した。

 薄れゆく意識と白む視界のなかで、拳を血に染めた美女が再び立ち上がる。
 いつも艶やかな黒髪が、炎に煽られたように揺らいでいるのは気のせいか。
 あとは誰が悪い? と、意味不明の詰問。その場にいた騎士たちが、一斉に犬居を指さした。

「え。いや、そりゃうんそうだけど。え、でも俺もう逮捕されて――」

 犬居の言葉はそこで途切れた。

 激怒のあまり正体を失くし昂ぶったまま、ただの暴走パンチングマシンと化した騎士団長。
 その拳の連打に、立ったまま失神するまでひたすら殴られて、犬居は二十六年の人生を顧みる。

 うすぼんやりと視界に浮かぶ、お花畑がとてもきれいだった。

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