武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

挿話1 英国少年

 ある冬の終わり。父が電話で何やら話していた。その時は何とも思わなかったのだが、その後白羽と遊んで風呂に入って出てきてもまだ続けているものだから、内心で女子高校生を連想しつつ、メモ紙を探してきて、父の袖を引っ張ってこのように掲げた。
『誰と何を話しているのですか?』
 紙とペンを渡すと、父はさらさらとこのように書く。
『かつての友人だ。今度日本に来るらしい』
『外国人?』
『英国の者だ。学生時代、留学してきた。お前と同い年の子供が居てな。家族で遊びに来るというから、来たら仲良くしてやるといい』
 なるほど、と総一郎は納得し、少々楽しみに思いながら部屋に戻った。白羽と兼用で、帰ると彼女が何やら作業をしている。
 集中しているようなので、一区切りしてから話しかけようと様子を見ていた。後ろから覗くと、紙に何やら絵を描いているようだ。見れば、小学校の課題であるらしい。隅っこの方に「しゅくだい」と印刷されている。
 それを、白羽は鼻歌を歌いながら上機嫌で書いていた。恐らく、これは象だろう。お世辞にもうまいとは言えないが、年ごろを考えればこんなものかという程度だ。
 気分がのって来たのか、鼻歌だった「ぞうさん」を声に出して歌い始める。微笑ましい気持ちで、それを見守っていた。総一郎の存在になかなか気づかない辺り、クスリとしてしまう。
「そーうちゃん、そーうちゃん、おー鼻が長いのね」
「歌止めて」
 嫌な替え歌だった。
 その時白羽は初めて弟の存在に気づき、振り向きながら「ん?」と首を傾げる。
「あ、総ちゃん総ちゃん! 見て見てこれ! 学校でね、しゅくだいなの!」
「へぇ、そうなんだ。何書いてるの?」
 先ほどの推察をおくびにも出さず、総一郎は尋ねる。
「ゾウになった総ちゃん!」
「止めなさい」
 歌に全くの誇張がなかったことにびっくりだった。
 そのように言うと、むくれて「何でー?」とジト目の白羽。「むしろ何でそれを選んだの」と問い返すと、「似合いそうだったんだもん」という謎の感性が総一郎の前に現れる。
「……じゃあ分かった。僕だけじゃなく、家族全員が象になってるならいいよ」
「え~。しーちゃん象ヤダ」
「じゃあなおさら僕を象にしないでよ!」
 子供の勝手な言い分に、総一郎怒髪天である。しかし白羽はどこ吹く風、しばし思案してから、何かに気付く。
「あ、でもブタさんならいいよ? お母さんは羊で、お父さんが虎!」
「お父さんお母さんは妥当だからおいておいて、……何故白ねえがブタ?」
「だって、おいしいでしょ?」
「うん。そうだね」
「……」
「え? おいしいからなりたいの!?」
「あ、でも前に食べたウサギの料理もおいしかったから、やっぱりそっちで」
「……そっか。頑張って」
「うん!」
 元気に頷いてから、再びお絵かきに没頭する白羽。総一郎、ちょっと姉の将来が心配になりつつあった。
 しかも、近々遊びに来る子供のことは伝えられずじまいである。
 数日後、予告されていた通りにチャイムが鳴った。外国の人と話すという経験が、総一郎には前世含めて非常に少ない。そのため、不安と期待がないまぜになっていた。一方白羽は一人縁側で日を浴びながら昼寝している。
 ドアを開けると、父よりも背の高い白人が立っていた。見るからに外国人の風体に威圧され、総一郎は慌ててしまう。それに男性は困った風に、日本語で訊いてきた。
「えっと……、君がソウイチロウ君ですか?」
「……日本語ペラペラですね」
「エッ、あ、ああ。ありがとう」
 現在総一郎は五歳である。
 日本語が喋れるのかと安心する。そうか、なら子供の方の言うことが全く分からなかった場合でも、最悪彼に聞けば何とかなるという事だ。
 安堵して、あとは友人が増えるという楽しみだけが残った総一郎。男の子が父親の後ろから走ってきて、総一郎は気軽に「ハロー!」とあいさつする。
「Hello!  I am Fergus Gurinder. What’s you name?」
「マイネームイズ、ソウイチロウ・ブシガイト」
「Souichirou?」
「うん。あってるよ。発音上手いね」
 すべて英語で喋るなど不可能なので日本語で話すと、意外にも褒められたのが分かったのか照れたような反応を示す少年。多分……ファーガスと呼べばよいのだろう。結構テンション高めなので付き合いやすそうな感触だ。
 彼は総一郎と大体同じ体格で、栗毛をしている。目が大きくて、愛嬌のある顔をしていた。
 家に招き入れると、父が出てきた。ファーガスの父親は「おお! 懐かしい……!」と両手を広げて、父をハグする。対する父は平然と「ここは日本だ」と一刀両断。顔を押さえて押しのける。
「お前が、ファーガスか」
「ハ……ハイ……」
 ファーガスは緊張した面持ちで日本語の相槌を打った。彼の父も、ハラハラしながら見守っている。前情報があったのだろう。確かに父は、日本でぺちゃくちゃ英語を話す外国人とかが嫌いそうではある。
 だが、雰囲気とは異なって父は寛容だ。少なくとも、努力が見える幼子を叱りつける事はない。
「そうか。これから二週間、よろしく頼む」
 言いながら、優しくファーガスの頭を撫でる父。その口元には、よく見なければわからないほどの薄い笑みが浮かんでいた。家族でさえ見るのがレアなため、ちょっとうらやましくなる。
「ソウイチロウ君。ファーガスはまだ日本語を話せないが、日本に来たら日本語以外耳にできなくなると言い聞かせてある。先ほどの自己紹介は省くとしても、是非我が子のために日本語だけで話してやってくれ」
「はい。了解しました」
「ははは! お前の言うとおり、明晰な子だな。ほら、ファーガスもあいさつしなさい」
 ファーガスの父親は父に向かって笑いかけ、我が子の背を押す。
「ヨロシュクオネギャイシマス!」
「……結構習得早いんじゃないかな。これ」
 少なくとも、ネイティブレベルの父親の日本語を何となく掴めている。五歳でこれなら、すぐにでも話せるようになるだろう。
 ファーガス親子は、少年の祖父の介護という理由でイギリスに残った彼の母親を除いた二人で、我が家に二週間前後逗留する予定になっているのだという。 父もその用事にかかわっているらしく、そのためにホテルではなく我が家になったのだと。ちなみに、日本の観光をまともにできるのは三日程度らしい。割と余裕があるなと思う総一郎だ。
 我が家は広く、余っている部屋などがあったため、それを客人に宛がった。母であるライラなどはファーガスの父親と面識があるらしく、「あらやだ懐かしい!」と両手を合わせて喜んでいたほどなので、その辺りもスムーズに進んだようだ。
 スムーズでないとすれば、多分この場面くらいの物だろう。
「……誰?」
「オゥ、アー、……ハジメマシテ?」
「……!」
「いやあの、白ねえ? 何で僕の背中から出てこないの? というか白ねえって人見知りするタイプじゃなかったよね」
「ぅー……!」
 軽いノリで姉を紹介するとファーガスを連れてきたのだが、肝心の白羽は警戒モード。天使のくせにどちらかというと獣人っぽい。
 戸惑っているファーガスを一旦置いておき、部屋の隅にて白羽と向かい合って聞き出してみる。
「で、白ねえ、何でそんな感じになってるの? ファーガス君に失礼でしょ」
「しかし、すじょうも知れぬやからをうけいれる事はできぬのだよ……」お前誰だ。
「お父さんの友達の息子だよ」
「嘘だ! そんな話聞いてないもん!」
 謎の頑なさを見せつける白羽。もしかしたら、仲間外れにされたと感じて拗ねているのかもしれない。
 ふぅむ、と顎に手をやり考える。白羽が馬鹿にしたように総一郎の真似をしているが、それは放置だ。
 そして、考え付いた。
「ちゃんと仲良くできたら、白ねえの言う事なんでも聞いてあげ」
「ハローファーガス! アイアムシラハ! ナイストーミーツー!」
 電光石火だった。


 そんな風にして、三人は打ち解けて行った。白羽はファーガスに向けて一方的にしゃべり、総一郎はそれに手の仕草を加えたり、逆にファーガスに喋らせようと日本語を教えたりした。
 幼子は、言語の習得が早いという。周囲の会話を、だんだん聞き取っていくのだ。挨拶の時を除いて総一郎たちは英語らしきものを使わなかったため、それに触発されたというのもあって、彼の日本語の発達は著しいものがあった。
「ソウイチロウ! シラハ! 遊びイク! ズショニィ!」
「いいよー! じゃあみんなで、しゅっぱーつ!」
「おー!」
 白羽の上げる手に、総一郎も追従。言葉が通じれば、事細かな人物像が見えてくる。ファーガスは活発で、人当たりのいい少年だった。五歳の割に、分別もある。この年頃のこの正確では我儘も多かろうに、彼は駄々をこねようとする素振りさえ、いまだ見せていなかった。
 好ましい少年である。だが、そんな素朴な特徴が霞むほどの才能が、彼にはあった。
 それが露見したのは、公園で遊んでいた時の事である。
 あつかわ村には、野良犬、野良猫の類が多い。とはいっても完全な野良というのではなく、村が世話しているのが、日中は放し飼いされているという次第だった。公園は特にそれらの動物が集まりやすい。地面が砂利でなく、子供が転んでも痛くないように配慮された特殊な作りになっていたから、寝心地がいいのだろう。
 そこにファーガスを連れて行ったとき、彼は犬猫の多さに口端を引きつらせていた。動物が苦手なのだろうかと考えていると、有り得ないことが起きた。
 ファーガスが公園に足を踏み入れた瞬間、同時に全ての犬猫が立ちあがり、彼に向けて突進してきたのである。
 それは、あまりにもシュールな絵だった。ファーガスは取り乱して、慌てて踵を返すが遅く、次の瞬間には数匹の猫が飛び掛かり、それに足が少し遅くなったところで中くらいの犬がしがみつき、大型犬が彼の息の根を止め、デブ猫がダメ押しをした。
「ファーガスぅ!?」
 総一郎、驚愕である。
 急いで図書などに手伝ってもらい救出すると、息絶え絶えに泣き笑いを浮かべる少年が引きずり出された。ともあれこんな状態では無事に遊べないという事で、いつもは温和でのんびりとしていたはずの小さな猛獣たちと格闘しつつ家に戻った。
 その日の夜。ファーガスの父親に尋ねると渋い顔で首をひねられた。
「んー、何と言うかね。彼の祖父……つまりは私の父なんだが、大農場主で、昔からよく遊びに行っていたんだよ。その頃から動物に懐かれるようになったから、多分そんな感じだと思うんだが……ね」
「懐かれるとかそういうレベルじゃなかったですよ……? ちなみに、ファーガスパパは」
「……人並み、かな」
「なるほど……」
 遺伝とかではないらしい。
 そんな状態ではろくに外では遊べないから、というのもあって、ファーガスに合わせて家の中で数日遊んでいた。だが、本人はそれが満足できなかったらしく、その上自分が気を遣われているというのが分かったのかもしれない。少しむっとした風に、この様に言うのだ。
「Let's go outside! Why I do not go outside! Let's go! Go!」
「なんかめっちゃ怒ってるよ総ちゃん。なんて言ってるか分かる?」
「外行こうよって感じかな……」
「えっ」
 白羽でさえ絶句するほどのハングリー精神である。
「あとファーガス、違うよ。ゴー、行く。アウトサイド、外。僕の真似して? 外に行きたい」
「ソトにいきタイ?」
「うん。そうそう」
「ソトにいきたい!」
「総ちゃんって教育ねっしんさんなんだねぇ……」
 そんな会話もあって、外で遊ぶことになった。しかし、このままでは二の舞になるばかりだ。般若兄妹にも掛け合って、出来うる限りファーガスの負担が軽くなるもの、また、折角の彼の才能を生かせるような遊びを考えた。
 すると仕掛けも大仰になって、その場ですぐにという訳にもいかず、ファーガスを宥めすかして翌日まで待ってもらった。彼はしばし憤然としていたが、サプライズには時間がかかるというような内容を伝えたら、口端をにやけさせつつも、仕方がないなぁ、と言う風なリアクションをした。
 翌日、ファーガス含む五人は、ブシガイト家の庭で今回の遊びの説明の為、皆で集まっていた。総一郎と図書が説明役。それ以外は聴衆である。
「じゃあ、説明を始めるね。今回の遊びは鬼ごっこ。ただし、鬼はこの中の一人じゃなく、公園に居る犬猫たちだ」
 犬、猫、と言う単語を教えていたのもあって、ファーガスの顔からスッと血の気が引いた。怖がるようなリアクションと共に仰け反るが、総一郎は「違う違う」と笑って否定する。
「ファーガス一人が追いかけられるんじゃなく、一緒に協力し合って逃げるんだよ。具体的には、図書にぃ以外の全員でね。……あー。一緒、トゥギャザー」
「一緒、逃げる。……どのヨウに、スル?」
「じゃあ、論より証拠ってことで。―――――――――――」
 総一郎は呪文を唱え。手から出した光球を、全員の間でさく裂させた。ただし光は一瞬で、目がちかちかするほどの物でもなかったはずだ。
「な、何? 何したの? 総くん」
「琉歌、落ち着け。説明用にあらかじめ鏡を用意してある」
 図書が取り出した手鏡を見て、ファーガスが「Mirror?」と声を出す。
「これは日本語で鏡って呼ぶんだ。鏡、な。で、ほら、それで琉歌と総一郎と白羽を見てみろよ」
「……?」
 ファーガスは恐る恐ると言った感じに、鏡越しでそれぞれを見始めた。次いですぐに目を剥いて歓声を上げる。
「えっ、何々!? ちょっと見せて!」
 いの一番に食いついたのは白羽だった。驚いて声も出ないファーガスから手鏡を奪い、自分の顔を見て興奮のあまり悲鳴を上げている。
「総ちゃん総ちゃん! 凄いよほら! るーちゃんもほら!」
 手鏡に映し出されたのは、二人のファーガスの姿だ。そう。つまり先ほどの光魔法は、ここに居る四人の姿をファーガスの物に偽るというものだった。
「総一郎と話し合ってな。この鬼ごっこのルールはもう分ったろ? それを見て追いかけてくる犬猫たちから逃げる。で、名前の通り捕まったらゲームオーバーって訳だ。俺は襲われて死んだ奴を回収するから安心しろ。そのための器械も作った」
 そう言って、図書はリュック型の小道具を取り出した。そして装着し、少々呪文を唱えると彼の体が浮き始める。
「Whether this is the magic of Japan! Wow!」
「何て?」
「これが日本の魔法か! スゲェ! ってよ」
「お兄ちゃんすごーい! だっこー!」
「脈絡なさすぎるけどいいや。来い」
 兄に抱き上げられる琉歌を見て、スキンシップ好きはそう簡単に治りそうもなさそうだと総一郎は他人事。ついでにファーガスに目を向けて、教え始める。
「はい、ファーガス。『これが日本の魔法か! スゲェ!』」
「コレが日本のマホウカ! スゲェ!」
「発音結構いいよねー、ファーガスって。ところでファーガスって長いから呼び方変えたい。ファーちゃんとかどう?」
「ファーチャン?」とファーガス。
「何故ちゃんになったのさ」
「総ちゃんも総ちゃんじゃん」
「あっ、確かに」
 ドッグス&キャッツ鬼ごっこ。ここに開幕である。
 四人は冷や汗を流しながら、恐る恐る公園に近づいた。図書も、リュックで宙に浮きながら固唾をのんで見守っている。
 中々に緊迫した状況だが、ふと我に返ると酷いものだ。光魔法の偽装によって、互い以外には四人ともファーガスの姿をしているように見える。そんな少年らがじりじりと公園に寄っていき、その背後で高校生がリュックを背負ってぷかぷかと浮いているわけである。滑稽とかそういうレベルじゃない。シュルレアリズムの戸を強くたたいている。
 そのため総一郎は一人だけ口元が少し緩んでいたが、琉歌が公園に足を踏み入れても動物たちが反応しないことに、全員がおや、と首を傾げる。
「……今日は、反応しないね」
 総一郎の声に、それぞれが賛同を示す。きょとんとした面持ちで次々公園に足を踏み入れるが、何事もない。それでもファーガスただ一人は緊張していて、「もう大丈夫だよ」と彼を引っ張って公園に連れ込んだ瞬間、空気が変わった。
 日向ぼっこに集まっていた動物のことごとくが、ぎらついた目を全員に向けている。
 総一郎は、半ば感心していた。やはり、これはファーガスにのみある才能なのだと。しかしその一方で、姿が全員同じならば、動物たちにはその区別がつかないというのも事実らしい。
 危機察知能力が一番高かったのは、総一郎とファーガスだった。
 踵を返すのも、走り出すのも、その速ささえすべて同じだった。対して出遅れた少女二人は必死にこちらへ走ってくるが、琉歌の声などもうほとんど涙声だ。
 普通なら子供と犬の追いかけっこなど成立するはずもないが、今は魔法という便利なものがある時代だ。当然図書によって、その配慮はすでになされている。具体的には速度と安全性だ。転んでも怪我をしづらい親切設計である。
 だが、それでも犬猫を圧倒するほどのものではない。あまりに簡単では、楽しい余興として成り立たないからだ。よって足の速い犬は少年たちに簡単に追い付けられる。しかしこの追いかけっこはタッチされたら負けなのではなく、制圧されたら脱落という内容だ。バランスは取れていると言っていい。
 そのような状況であったので、ファーガス共々、総一郎は見事犬猫から距離を取ることに成功していた。しかし背後から、号泣にも近い悲鳴が上がる。そして白羽の「るーちゃぁああん!」と言う声。愛しき声を持つ垂れ眉の少女は見事散ったらしい。南無。
「ダイジョブ!? ルカ、ダイジョブ!?」
「分からないけど図書にぃが救ってくれてるはず。というかこのままだと、白ねえの方が心配だよ、僕は」
 全力疾走の中、二人で会話を交わす。そこに、乱入する者があった。
「ふっふっふー、お姉ちゃんをなめちゃ駄目だよ、総ちゃん」
「えっ?」
 真後ろから聞こえた言葉に、総一郎は驚愕を示す。そこまで彼女の足は速かっただろうか疑ったのだ。
 その真相は、すぐに明らかになった。羽ばたくような音が聞こえて、白羽は悠然と二人の前に姿を現した。羽は巨大化し、少年たちの頭ほどの低空で、彼女は風を切って飛んでいる。
「あっ、ズルい。流石白ねえ! このくらいの事は普通にやると思ってた!」
「ズルイ! ズルイ!」
「うっ、五月蝿い二人とも! 捕まんなきゃいいの! ふんだ! 総ちゃんだけは助けてあげようと思ってたのに!」
 ぷんぷんとふて腐れた様子で、白羽は少しずつ上昇していく。しかし改めて考えると、翼とは非常に有利なものである。制空権を握るのはそのまま勝利に直結しかねない。そう思い、そろそろ息が切れそうだと考えて歯噛みしていた。
 すでに白羽は民家の屋根近くを飛んでいた。とっくに二人の五メートルは先を行っている。それを羨ましく思っていると、彼女はこちらをちらと振り返って、この様に言った。
「ふふーん! 悔しかったらここまでおいで―!」
 その、まさにその瞬間だった。屋根に乗っていたらしい数匹の猫が、白羽に向かって飛び移ったのは。
 意識していなかった横槍に、白羽は「ふぇっ?」と間抜けな声を漏らして体勢を保てなくなった。そのまま少しずつ墜落していき、最後には猫と共に地面に潰れる。その後の結末は言うまでもないだろう。一つ言葉にするとすれば、二人が追い抜かした二秒後に「にゃー!」と言う悲鳴が上がったくらいか。
「白ねぇぇぇぇぇええええええええええ!」
 今は亡き姉の無念に感じ取って、総一郎は吠える。亡くすには惜しい人だった。しかし二人は明日を見なければならない。
 とはいえ、動物の群れはすぐ背後に迫りつつある。すでに地形は見覚えのあるものではなくなっていて、曲がり角を右に言った時、総一郎は絶望を知った。
 行き止まり。
 五歳児には遥か高き塀が、そこにそびえ立っていた。総一郎は顔を引きつらせ、ファーガスが「Oh my GOD!」と叫ぶ。
 振り返ると、獣たちはすでにいて、じりじりと近寄ってきていた。二人して後退し、背中を塀にぶつける。
「……ファーガス、行くんだ」
「行ク? 俺……only?」
「そう。僕が、踏み台になる。ファーガスは、そこからよじ登ればいい」
 身振りを交えて話すと、彼は理解したのかぶんぶんと頭を振った。それにソウイチロウは、「ファーガス!」と強く名を呼ぶ。
「こんな状況を作り出してしまう君だからこそ、僕は生き残ってほしい。ここまで来たら、君以外のだれも生き残るべきではないんだ。ファーガス。生きてくれ。そして願わくば、僕のことを忘れないでいてくれ……」
 その言葉の全てが伝わったのかどうかは、定かではない。しかし彼は少年の手を掴んで、「ソウイチロウ!」と叫ぶ。
「I do not forget you!」
「……ああ、頼むよ」
 総一郎は、言うが早いか地面にしゃがみ込む。ファーガスはすぐにその肩の上に靴を脱いで足をのせ、総一郎とほぼ同時に立ち上がった。そして軽く蹴られて、彼は塀の向こうへたどり着く。総一郎はその衝撃に抗わず、倒れていく。
 そこに、猛獣の群れが襲った。
 奴らは総一郎を上から押さえつけ、身動きをとれなくした。その恐怖に溜まらず叫び声を上げたが、助けに来るものはない。早く、早く図書よと考えていると、少しずつ多くの犬猫の顔が寄ってきて、舌が伸びてくる。
「止めろ、止めてく、うわぁあぁぁあああああああああああ……――――――!」
 ――かくして、そこに(ペロペロ)地獄が展開された。

 ……余談だが、総一郎が叫び声を上げた一分後には、最後の断末魔が上がっていたという。


 その一件を経て、二人は竹馬の友ともいえる仲になった。お互いを認め合ったというべきだろう。特にファーガスから総一郎にかけての信頼が厚く、お菓子などをもらっても少しだけ総一郎にプレゼントするといった次第だ。白羽が対向して総一郎にお菓子をプレゼントし、最終的にファーガス、白羽の意地の張り合いになったのが記憶に新しい。
 そんな風に日は過ぎゆき、気づけばお別れの日になっていた。ファーガスの手には、子猫が入った籠が握られている。何でもあの日、ファーガスを唯一慰めるようにしてくれた一匹なのだという。真偽がどうかは置いておき、彼がいたく気に入ったのだと。
 別れは盛大に行われた。母が腕によりをかけた料理を作り、父さえも余興として楽器を弾いたほどだ。ちなみに手にした楽器はギターだった。イメージが崩壊したものだ。上手かったが。
「ファーガス、またね」
「マタナ、ソウイチロウ」
 付きっ切りで教え込んでいたため、彼の日本語の上達っぷりはなかなかのものだった。ファーガスは手を振って、歩き去っていき、再びこちらを向いて手を振り、また少し歩いては手を振った。
 総一郎もまた、答えるように手を振り続けていた。彼の姿が、見えなくなるまで。
 少年の、春の一幕の出来事だった。

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