武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

10話 マヨヒガ

 その家の中は、暗いながらも囲炉裏の火で、ぼんやりと明るく光っていた。囲炉裏には鍋があり、湯気を上げている。夏なのに不釣り合いな、と考えたが、いつの間にか妙に寒く感じて、違和感も何処かへ行ってしまった。
「総くん!」
 そしてそこには、今朝離れ離れにされたはずの、琉歌が座っていた。立ち上がり駆け寄ってこようとしたが、総一郎を背負う老婆は、やんわりとそれを止めた。
「これこれ、この子は疲れて居るから、あんまりはしゃいではいけないよ」
 言われて、しょんぼりと項垂れた琉歌。降ろされて、無言で頭を撫でてやると、表情を静かにほころばせてくれた。解れる様が、非常に可愛らしいのだ。
 鍋の中身を椀に移して、老婆は総一郎に差し出した。座って一口すすると、躰に活力が漲った。動き出したくなるというのではない。ただ、芯を取り戻すというような感じだった。
「どうだい? お味は」
「とても美味しいです。……ありがとうございます、本当に」
「坊や、お前さんはまだ小さな子供だ。礼なんて堅い事は考えず、ただ美味しいと言ってくれればこっちは満足なのさ」
 言って、優しげに皺だらけの顔を微笑させる。総一郎は、答える様に笑みを返した。
 その後老婆は、少々危ない作業に入るから、襖からこちらへは来ないように言った。二人は了承し、自然、話は今日の出来事になっていく。
「るーちゃんは、あの後どうなったの?」
 尋ねると、琉歌は唸りつつ眉根を寄せた。それでも垂れ眉が治らないのが、総一郎を和ませる。
「天狗さんに攫われてね、山の上のお寺の方に行ったの。そしたらいっぱい人が出てきて、天狗さんと戦い出してね、私にもいっぱい痛いのが当たって……」
「やっぱりそっちも大変だったか」
 ほら、と彼女がザックから出したぼろぼろの服を見て苦笑いするものの、彼女が体験した騒動はすべて演技だったのだろうという事が、総一郎には予想できた。総一郎自身、数分前に仕組まれた事件で、無理やり加護を授けられている。恐らく、琉歌に当たった攻撃の全ては加護だったのだろう。人見知りの彼女に対して、中々に上等な手段だ。
「総くんは?」
 聞かれて、淀みなく総一郎は語りだした。昼間何度もされた問いである。琉歌は驚いたり、感慨深そうに頷いたりと聞く側に嬉しい反応を返してくれ、最後には「総くんも大変だったんだねぇ……」で締めた。
 柔らかに会話が途切れ、しばし無言になる。思い出したように琉歌は椀の中身を啜り、総一郎もそれに追従した。
「いつの間にか、寒くなったね。夏休みだよね? 今」
「うん、総くん。……静かだね、ここ」
 静謐な言葉は、囲炉裏の中に吸い込まれて、消えてしまったようだった。疲れは当然あるはずで、しかし眠いとも思わない。それは琉歌も同じなようで、暇そうに「むぅ……」と声を漏らしていた。
 ふいに気になって、老婆が入っていった襖を見やった。琉歌の視線も総一郎を辿り、襖に向かった。
「……何、やっているんだろうね」
「……うん」
 どちらがどちらの台詞を言ったのかも、思い出せない。ただ二人は、何をしているという自覚も無しに、こっそりと、小さく襖を開けていた。金属を擦るような、妙な音が聞こえる。そういえば、危険な作業をしているのだっけ、と思い出した。
 襖の先は、ほとんどが暗がりの中にあった。唯一小さな豆電球が、老婆を照らしている。総一郎は半ば偏見の様に、庖丁を研いでいるのかもしれない、と思った。けれど、どうしてもそれが間違いの様には思えない。
 時折、喉を引くつかせるような声が聞こえた。笑っているのだとしか、考えられなかった。そこで初めて、自分が妙な雰囲気に呑まれているという考えが産まれた。深呼吸をする。少し、落ち着く。
 だが、その時琉歌が、妙なことを言った。
「総くん、聞こえた?」
 視線だけで、琉歌を見た。そこには抜け落ちたような表情と、青ざめた顔がある。聞こえた、とは、何を指すのか。
 暗闇中で、気配が動いた。
 視線を戻すと、豆電球の光が消えていた。襖の先には、ただ色濃い闇があるばかりである。寒いのに、背筋に一粒の汗が落ちていく。光魔法を使って細かな様子をうかがう勇気は、総一郎にはなかった。
 琉歌と共に、あとずさった。同時に、暗闇の中から、一歩の足音が聞こえた。総一郎たちが下がる度、足音が一歩追ってくる。琉歌が、総一郎の手を掴んできた。その手は、震えていた。
 二人の背が、壁に入り口の戸にぶつかった。外は風が強いのか、ガタガタと音を立てている。襖が、音と共に全て開いた。闇から、不気味な無表情を湛えた老婆がぬっと出て来る。
「坊や……、お嬢ちゃん……、入ってらならぬと、言っただろう……?」
「い、いやその、悪気が有った訳という事ではなくて、ですね……!」
 苦しい言い訳だ。と思う。老婆の口調からして、覗かれるだけでも嫌な事であったのには違いが無い。静かながら恐ろしさを纏っていた。目が、据わっているのである。
 そして襖から数歩進み、その手に握られた包丁を見て取った刹那、総一郎は心を決めた。
 琉歌の手を引き、戸を開ける。
 強い寒風が、総一郎たちを襲った。眼前に白がる真っ白な景色に瞠目したものの、構わずに走っていった。怒り狂ったような、低くも甲高い罵声が背後から来たが、それはむしろ総一郎たちの足を速めるに至った。何を言ったのかは聞き取れなかった。ただ、恐ろしさがすぐ後ろから迫っていた。
 しかし、こんな雪の中ではろくに耐えることは叶わないだろう。総一郎は火魔法を体内で使い、体温を維持することも出来たが、吹雪の中でただ火を燃やすだけでは、琉歌は持ち堪えられまい。魔力も、いつ途絶えるか分かった物ではないのだ。
 総一郎は、その為小さな小屋を探した。最悪の場合は、先ほどの場所に戻ってもいい。光魔法と音魔法が使える総一郎にとって、完全なる隠伏は不可能ではなかったからだ。しかし、老婆は追ってきているのか、その喚き声が聞こえる。内容は、吹雪がかき消していた。
 近くを探ると、納屋のような建物を見つけた。鍵がかかっていたが、扉が木製だったので、木魔法で操って鍵をかけたまま入った。暗いが、問題は無い。目に光魔法を使えば、余計な光なしに物を捉えられる。
 震える琉歌と共に、納屋の奥へ向かった。寒いと凍える彼女に火魔法で炎を出し、光魔法で自分たち同様に隠匿する。音も、漏らさないようにした。これで一息が吐ける。そう思った瞬間に、扉があいた。
 老婆が、吹雪を纏って現れた。
 寒気が、小屋の中に吹き荒れた。いけない、と火魔法を消す。姿も見えないし、音もない。だが、火を灯せば温度が上がる。
 物陰からその様子を窺っていたが、しばらくすると詰まれた樽などに遮られて、老婆の影を見失ってしまった。立ち上がり追いかけようかとも思ったが、琉歌が恐怖と寒さに震えて動けなくなっていたので、断念することとした。彼女の表情は泣くのを必死に堪えていると言った風情で、その健気な様子に、「泣いてもいいんだよ」と伝えた。
 声は、漏れないのだ。
 しがみ付く様に総一郎の背に手を伸ばし、琉歌は縋る様にすすり泣いた。その背中を軽くたたきながら、風魔法で気配を探る。総一郎とは少し離れていたが、動きから察するに、視界や音に頼った探し方はしていないようだった。
 危うい。総一郎一人なら老婆に立ち向かうという選択肢もある。だが、琉歌を連れている今、彼女に凄惨な殺し合いを見せる訳にはいかなかった。と同時に、背後から気配を感じた。
 目を剥いて、すかさず総一郎は振り返る。何やら妙に無気力な視線と、総一郎の攻撃的な視線がぶつかる。
 漬物石らしき巨大な石についた目が、総一郎を凝視していた。
「……あんちゃん。大変やなぁ……」
 ぼんやりとした様子の漬物石の声。慌てて総一郎、その声を音魔法で老婆から隠す。
「何、一体。君は誰?」
「わし? わしは見ての通り漬物石。そっちは? もしかして今日境内で遊ばれてた琉歌ちゃん? それともスナークが怖い総一郎?」
「どっちも。ところで、ねぇ、聞いてもいいかな? おばあさんに家に招かれて、出たら何故か外が雪山になってて、その上おばあさんに追いかけられてるんだけど」
「ああ、あの婆さん、山姥やからね。本当は寝込み襲うのがいつもなんやけど、包丁研いでるところ見たん? まぁ、あの人、人の子喰うのが生きがいやから。でも、それ以上は分からんもん。わし、漬物石やし」
 何なら、分かる人のとこ、連れてったろか? そんな風に言った漬物石に、琉歌が手を握ったのが分かった。
 俯くと、丁度彼女と目が合う。垂れ眉が、きりりとしていた。よほど怖かったのだろう。目に力がこもっている。
 戸惑い気味に、総一郎、肯定を返した。
「じゃ、じゃあ、お願いします」
「了解。ほんじゃあちょっと、そこから動かんといてね」
 よっせ、と言う掛け声と共に、石は微動した。何が起こるのか。そんな視線が集中し、しばしの間があった。緊張が高ぶり、けれど時間を取り過ぎピークを超える。その瞬間に巨大な石は高く飛びあがり、総一郎と琉歌を、一息に押しつぶした。


「おいそこの餓鬼ども。一体、どうやってここに来た」
 しわがれた声に反応して、総一郎は覚醒した。うつ伏せの状態で、腕を使って上体を起こす。手を突いた場所は板張りの部屋らしく、目につく物が扉と、神棚に飾られた二振りの扇のみな、非常に簡素な空間だった。
 先ほどまでなかった強い光に、目が眩んだ。光魔法は、最小限だったのだ。慣れるまで手でひさしを作りながら天井を仰ぎ、しかし光は見つからなかった。かと言えば影はしっかり出来ているのだから、奇妙の一言である。声がする。琉歌が目を覚ます。
「やい、聞いてんのか、そこの坊ちゃん嬢ちゃん。ぎゃはははは!」
 先ほどの物とは違う、軽薄な声が総一郎たちを呼んだ。二人そろって、きょろきょろと周囲を見回していると「こっちだ、こっち」と言われた。
 声に導かれ、神棚の近くまで行く。飾られた二振りの扇には、それぞれ風神と雷神が描かれていた。そこまですれば、総一郎にも声の主が理解できる。
「えっと、喋っているのは君?」
「うむ。我は雷神の扇。そして」
「俺は風神の扇って訳だ。ぎゃはははは!」
 問うた瞬間にぬるりと動き出した扇の中の風神雷神に、どこか夢を見ているような気分で、総一郎は曖昧に返事をした。琉歌が硬い表情で総一郎の手を握る。無言で、総一郎は握り返した。
「それで、ここは何処なの?」
「おい、餓鬼。それは我の質問に答えてからにしてもらおうか」
「そうだそうだ。ぎゃはははは!」
 憮然としながらも総一郎、彼等に答える事とした。
「漬物石に、この状況の理由を教えてくれる人の元へ、連れて行ってくれると言われたんだ」
「ほぅ……?」
 雷神は興味深そうに扇の中で身を乗り出し、風神は納得がいったように何度か頷きを繰り返した。雷神に促されて、詳しい事情を説明する。
「それはな、ここがマヨヒガだからだ」
 雷神が、顎に手を当てて言った。「おうよ」と風神が言葉を継ぐ。
「坊ちゃん嬢ちゃんが入った山姥の家もマヨヒガ。出た先の雪山もマヨヒガ。納屋もマヨヒガだし、当然、ここもマヨヒガって事になるのよ」
「どういう事なの……?」
 弱ったように眉をさらに垂れさせて、琉歌が力なく漏らした。総一郎も良く理解できず、「もう一度お願い」と言う。
「だからよ、ここはマヨヒガなんだって。マヨヒガ。現代語で言やぁ、迷い家、って事になんのかね。しかし、坊ちゃん嬢ちゃん。アンタらまずいぜ。このままじゃあ、外には出られない」
「……何で」
「それはな、お前らが山姥の飯を食らったからだ。マヨヒガの飯を食えば、マヨヒガの住人になる。それはつまり、外に出られなくなるという事だ」
 よく分からないまま、総一郎は渋い顔で頷いていた。このままだと助からないと言っているのだけは分かったからだ。「外に出るには、どうすればいいのかな」と尋ねると、雷神が鼻を鳴らした。
「浅ましい餓鬼だ。ここでの説明も、冥土の土産ほどにはなっただろう。大人しく山姥に食われてしまえ。お前たちが来れたように、奴もここへ来れるのだからな」
 心無い言葉を吐いた雷神に、総一郎怒りを覚えた。すぅと息を吸い、宣言するように言い放った。
「――頭に来た。お前神様だろ。助言くらいくれたっていいじゃないか」
 嘲笑うように鼻で払い、雷神は言の葉を返してくる。
「そんなことを言う礼儀知らずの餓鬼に、助言をやる義理は無いな」
「義理、ね。義理が無ければ人を助けない神様か。そりゃあご利益なんてある訳がない。助言をしてくれないのも当然だ」
「……あまり、不愉快にさせてくれるなよ。我が雷を使えば、貴様などすぐに焼け焦げてしまうのだからな」
「そんな事を言うのは何で? 怒っているから? それとも傷ついているから?」
「怒っているからに決まっているだろう」
「具体的に言うなら、どんな気分なのさ」
「川で溺れている者を、助けなかったからと言って責められる様な気分だ」
「何でその人を助けなかったの? 助けてあげればいいじゃない」
「そんなことをしたら、溺れ死ぬのは我だ。この神体はあくまで扇故な」
「それで、君は僕たちを助けたら、溺れて死ぬの?」
 そこまで言って、雷神は口を噤んだ。にこ、と笑いかける総一郎に雷神は釈然としないながらも、鼻を鳴らして横を向いた。そこには、もう敵意は無いらしい。総一郎は、それを感じ取りながら言った。
「ちなみに僕は、川で溺れている所を水泳が得意な人に見殺しにされかけている気分だ。その人のせいで死んだら、呪い殺してやりたいほどに腸が煮えくり返っている」
 言ってから、総一郎はスイカより一回りも二回りも大きい火の玉を、両手のひらに一つずつ出現させた。小さく爆ぜる様な音が、常にその周りで起こっている。総一郎以外の、その場にいる全員が息を呑んだ。
「僕は、自分が大切だ。だけど、それよりも大切なものもいっぱい知ってる。君は、それを捨てると言った。僕は、それが許せない」
 淡々と、無表情の言葉に、雷神は瞠目して呻き声を出した。風神は炎球を見つめながら乾いた笑いを漏らし、琉歌は静かにパニックを起こしている。人の気も知らないで、と少し思う総一郎。
「お前の負けだよ、雷神。流石は神童と名高い総一郎だ。神を言い負かすだなんてよ。ほら、早く謝っちまいな」
「な、何を言う。我は言い負かされてなどおらぬ!」
「じゃあ、全員ともども燃えるかい?」
「それならば、お前が風で消せばいいだろう!」
「何か今は、そうしたくない気分なのさ。ほら、早くしな。本気の目だぜ。こいつは」
 ぐ、と言葉を詰まらせ、雷神は総一郎を睨みつけた。しかしすぐに意気消沈し、絞り出すような言葉と共に項垂れる。
「……すまなかった」
 確かに聞き入れ次第、炎を消して微笑んだ。
「うん。じゃあ、仲直りしよう」
 溜飲も下がって手を差し出す総一郎に、雷神は渋い表情をした。それに対し総一郎は、「違うよ」と言う。
「僕らは加護を受けにこの山に入ったんだ。外はもう、夏だからね」
「……ああ、そういう事か。ならば、そうだな、都合がいい」
 苦笑して、雷神は総一郎と琉歌に雷を飛ばした。視界に花火が散るような痛みに顔を顰めたが、これくらいなら我慢できる。そんな風に考えていると、妙な映像が見えた。記憶にはない情景だ。
 仰々しく飾られた小刀に、傍らの徳利。それらは部屋の奥にあって、中央には美しい純白の肌を持った女性が座っていた。身に纏う白装束が、奇妙な存在感を放っている。
「マヨヒガから脱する方法の一つだ。自らの血を垂らした特殊な酒を呑む。それだけでいいのだが、生憎と守っているのは雪女と言う手練れでな。総一郎、お前でも恐らくは勝てないだろう。その魔法の手腕は中々のものであるが、雪女のそれは、人を食らう事に掛けては他の追随を許さぬ」
「どうすればいいかな」
「奴は男を嫌っている。見かけ次第殺して喰うと酒の席ではよく自慢していてな、それ程に嫌いらしい。逆に女は一晩の間は話し相手にされる。翌日の朝には喰ってしまうのだが、それも待たずに殺してしまったという話は聞かないな」
「成程……。じゃあるーちゃん、頼める?」
「えっ?」


 マヨヒガの扉は、住人達の意思によって自由につながる先を変える。先ほどの場所は扇の間と言うらしく、マヨヒガにある部屋の中でも一等格の高い間であるらしい。ご神前でもあったのだから、頷ける話だ。
 その為、この部屋は何処へでもつなげられるようで、扉を出れば雪道につながるだろう、と雷神は言った。しかしその先に進むのでなく、すぐに扉に戻るように、と風神が注意を加えた。雪女の屋敷に直接入ればすぐに見つかってしまう為、一度外に出て、琉歌だけが素直に雪女に招かれる、と言う具合にすると、丁度いいのだと。
 その間に総一郎は、ばれないように身を潜めて小刀と徳利を奪い、自らの血を垂らして酒を呑む。そうすればきっと元の場所に戻れるだろうという話だった。しかし、総一郎は琉歌の事も考えなければならない。唸った少年だったが、「厠に行くと言えば何とかなんだろ」という風神のデリカシーのない提案で、一応の所は落ち着いた。
 そして今、総一郎は雪女の屋敷の、梁の上にしがみついていた。
 眼下では、テンションの高い雪女にぎこちなく頷く琉歌の姿が見えた。人見知りの琉歌を快活な口調で悪気なく困らせる彼女は、とても人を食うようには見えなかったが、あの優しげな老婆でさえ豹変したのだから、むざむざ姿を現す気にはなれない。
 奥の小部屋に、小刀と徳利があるという話だった。見せられた映像は少し古いらしく、風神が細かな訂正をしてわかった事だ。
 落ちないように、総一郎は梁の上を渡っていった。登るときは家の外から部屋に上がり、そこから木魔法でくぐれるだけの空洞を作った。小部屋の真上に辿り着く。下を見て、眉を顰める。
 問題は、いかにして降りるかという事だった。
 光、音魔法には、前述のとおり欠点がある。熱は隠せないし、今回の場合は振動、床の軋みなどに注意を払わねばならない。
 重力魔法が使えれば、と総一郎は無い物ねだりをした。マヨヒガにしかないという話だったが、もう少し扇の神たちに相談して得ておけばよかったと、そんな事を思う。自嘲気に短く自重を軽くする呪文を唱えた。途端、躰の調子に違和を感じた。
 おや、と思い少しの跳躍。天井に頭を打ち、墜落する。
「痛っ、ていうか、ちょっ、マズイ!」
 掴み損ねて、頭上の梁へ手を伸ばした。届かずに遠ざかっていき、地面にぶつかった。頭をもろに打ったが、涙が滲む程度のものだ。気付かれていないかまず確認して、首を傾げる。
「考えられるとしたら、漬物石の時かな」
 呟きつつ小部屋全体に音魔法をかけ、小さく扉を開いて身を滑り込ませるように侵入した。言われたとおり、仰々しい小刀と徳利があった。非常時ともなると対応が難しそうなので、今のうちに指先を小刀で切って、自らの血を酒に落しておく。他者の物が混ざっても平気だという話を聞いて、あらかじめ計画に組み込んであった事だ。
 これで、総一郎は今すぐにでもマヨヒガを脱することが出来る。しかし、やるべきことはまだまだ多い。
 小刀と徳利に、光、音魔法をかけ、持ち運ぶ。帰りがけに雪女に物凄く可愛がられている琉歌の首元を、三回、独特のリズムで叩いて、通り過ぎて行った。厠を探すと、綺麗に手入れされた場所を見つける。少々奥まった場所に置いて、彼女が来るのを待った。
 そして総一郎、五分後に耐えきれず立ち上がった。
 妙な予感がしていた。嫌な予感とも、言いきれない。それが、琉歌がなかなか来ない事に対してなのかも、判別がつかなかった。広間に戻ると、相変わらず雪女に琉歌は抱きしめられている。
 重力魔法をかけ直し、半ば浮くようにしてひょこひょことその様子を窺いに行った。雪女は相変わらずにこにこと琉歌を抱きしめて何かを囁いている。次いで琉歌を見ると、その表情は切迫していた。
 戸惑う総一郎。彼女にも彼の事は見えておらず、その顔が恐怖に歪み、涙を零しかけている。だが、その原因が分からなかった。体温が、抜け落ちる様な感覚が、総一郎を襲った。
 そこで、総一郎は気付いた。琉歌の手足。その先が、色を失っている。凍らされたのだと、確信を得る。
 木刀を、抜いた。
 雪女の頭蓋に振り下ろした。奴はしかし寸前で目を剥いて、身を傾かせて避けきった。鋭い声が、総一郎に突き刺さった。直後に、巨大な氷柱が来た。
 避ける。遅い。かすり傷を負う。傷口が凍っている。音を立てて、周囲に亀裂が入った。火魔法で溶かし、そのまま焦がした。血は出ない。痛みだけが身を苛む。
「何となくいる気がしては居たのよね……」
 不敵な笑みと共に、琉歌を拘束し直す雪女。対して総一郎は、顔を必死に引き締めて、歯を食いしばり痛みを堪えていた。木刀を構えるが、剣先が僅かに震えている。勝てる相手ではない。そのようにも、思う。
 ――火魔法を使えば、雪女は弱い。雷神が、出ていく寸前の二人に言った言葉だった。確かに、傷を焼くべく使った時、雪女の表情は分かりやすく引き攣った。その一方で、だが、とも思う。火魔法を使えば、殺すかもしれない。琉歌そっくりに化けた、あのドッペルゲンガーの様に。
 殺せない、ただ、何となく分かった。前世をあの太平の世に置く総一郎にとって、殺人は何処までも忌避すべき行為だった。
 だから、殺さないと決めて、その上で火魔法を使うことにした。
 槍のような形をした火を、二本。片手に一本ずつ乗せた。雪女が、躰を緊張させる。その眼前に、投げた。
 火の槍は地面に突き刺さり、火柱を上げた。
 総一郎、すかさず自分と琉歌に光魔法をかけ、駆け出した。琉歌の小さな手を引いて、走る。雪女が、音で判断したのだろう、巨大な氷柱を作り出し、こちらへ投げようとした瞬間だった。総一郎が、音魔法をかける寸前と言ってもいいだろう。
「止めてよ! 何で意地悪するの!」
 力ある言葉が、その場全員の魔法を止めた。刹那動きを止めた総一郎を、小さな手が引っ張っていく。その後ろ姿を見て、苦笑させられた。
 ――相変わらず、意識してない時にハッとさせてくれる子だ。
 駄目押しとばかり、木魔法で雪女の動きを阻害した。もがいている姿が、琉歌に連れられて見えなくなる。そこからは総一郎も足を速め、彼女を件の場所へ案内した。
 琉歌の小指を小刀で切り、その血を垂らす。そして、呷る。同時に、咆哮が聞こえた。雪女のそれだ。風味が強かったことに起因する少々の抵抗感が、掻き消された。二人は慌てたようにして酒を飲み下す。
 途端、視界が歪み始めた。三半規管がおかしくなったのか、地面との並行が測れず、琉歌とぶつかりあって、地面に倒れていく。
 目を、覚ました。
 そこは、暗い部屋だった。自らの状況を確認すると、見たこともないながら寝間着だと分かる浴衣を着ていて、腰までが布団に包まれていた。横を見ると、同じく呆然とした様子の琉歌が自分の布団をじっと見つめており、二人の気配に呼応したのか、部屋に光が差し込んだ。
「おや、どうかしたかい? 二人そろって起きあがって」
 視線をよこすと、人の子を食うのが生きがいと言われていたはずの山姥が、きょとんとして子供たちを見つめていた。そこには悪意と言うものが無く、かつてのあの恐ろしい表情が思い出せなくなる。
「どうしたんだい? 何か、恐い夢でも見たのかい?」
 言葉を受けて、琉歌が「夢……?」と呟きを漏らした。彼女はいつの間にか微睡んでいて、目を擦って眠り始めてしまう。
 それを見た老婆は、そっと襖を閉じた。総一郎も強い眠気があり、琉歌に倣って寝てしまおうかとも考えた。しかし、そこで妙な感覚を覚えた。中々厠に来ない琉歌を迎えに行くとき、抱いた感覚だ。
 総一郎、もしやと思い、毒魔法を使った。
 毒魔法の、眠気に対する相殺の呪文だった。案の定効き、「やっぱりだ」と確信を持って言った。立ち上がり、襖を開ける。針で何か縫物をしている老婆が、こちらを見た。
「おや、眠れなくなってしまったのかね」
「……はい、そんなところです」
 答えて、総一郎は老婆の隣に座った。囲炉裏には火など焚かれておらず、夏の暑さと夜の寒さが拮抗している。涼しい、と思いながら、確認するように、ぽつりと尋ねた。
「未成年に酒を呑ませるのは、どうかと思いますよ?」
「……いいのさ、毒魔法は下手すりゃ致命傷だ。酒程度で済めば、それに留めておく方がいいんだよ」
 老婆、もとい山姥は、綻ぶように笑った。成程、と思いながら総一郎も笑い返す。尋ねたいことは、多くあった。どれから行こうか、と高揚する。
「しかし、お前さんたちには眠り薬を盛っておいたんだがね。どういうことだい?」
 待っていれば、山姥から問いが来て、少し考え、答えを返す。
「毒魔法です。もしかしたらと思って使ったら、出来たんです。でも、なんだか不思議ですね。この場合、毒が薬になった」
「そんなものだよ、世の中はね。ちょうどいい分量なら、大抵のものは薬さ。やりすぎるから毒になる」
 そんな風にして、色々な事を尋ねた。あの小刀は金属魔法の加護であったとか、風神雷神の性格は、実際の所反対であるとか、雪女は手練れには違いない物の、本来は静かな優しい女であるとかだ。
「みんな、演技をしていたんですね」
「そうさ。自分を最初から最後まで偽りで作っておくと、おかしな所で綻びが出ない。総一郎には看破されてしまったがね。雷神の言うとおり、神童って事なんだろう」
「褒めても何も出ませんよ」
「誰もそんなの期待しちゃいないさ」
 くつくつと、笑っていた。夜長の話は、楽しかった。でも、と総一郎は山姥に問う。
「なんで、そんな演技をしていたのですか?」
「それはね、マヨヒガが人食い鬼に攫われた時のための、訓練だからだよ。いざと言うときにここでのことを思い出して、そのお蔭で生き延びられたという子は多いんだよ? だから、親は子にマヨヒガは恐い所だと教え、子供はここで必死に頭を捻る。ここで得られる加護も多いしね。ちなみに総一郎。お前さん達は、その中でも一番難しい道を行った」
「確かに、雪女さんのアレは恐かったですが」
「そうだね。だが、雪女は氷の加護を与える者の中じゃあ、かなり強い力を持っている。風神雷神もそうだ。けど、風神の方は堅物で癇癪持ちだから、性格が逆である演技をして、雷神が子供に酷いことを言って気を惹くのさ。本来は、マヨヒガの中でも子供好きで知られているのだが」
「……もし僕が雷神様でなく、風神様と口げんかをしていたらどうなっていたんでしょう」
「そんなのは風神がお前さんを勢いで殺してしまって終わりさ。そうなったら大変だから、性格を入れ替えているのだからね」
 神に喧嘩を売るなんて、見かけによらず血の気の多い子だよ。と心底面白そうに喉を鳴らして笑う山姥に、少々恥ずかしい気分になる。その時、ふと思い出したように山姥が聞いてきた。
「そういえば、総一郎。お前さん、取っていない加護はあるかい?」
「ああ、はい。あとは、水と時間です」
「水は、河童が居る池を通る道を教えよう。明日、琉歌ちゃんと一緒に行くと良い。時間は……すまないね。マヨヒガまでに授けられていないって事は、相手に気に入られなかったのかもしれない。気難し屋だから、仕方がないと思っておくれ」
 そうですかと相槌を打ち、自然と会話が終わった。寝直すべく襖を開けてみると、琉歌が安穏とした闇の中で、安らかに寝息を立てている。ふと、思い出すことがあった。
 ――雪女との、殺し合い。あの時自分は、相手の事を殺せないと感じた。命の価値が、などと高尚な事は言わない。多分、性分なのだろうという思いがある。
 けれど、その感情は後悔とは程遠かった。逆に、ドッペルゲンガーはいまだに彼の記憶の奥深くに根付いている。後悔かは分からない。ただ、思い出すと色々なことが判別できなくなるのだ。
 布団にくるまりながら、その後、色々な事を考えた。加護、殺人、琉歌。今日の出来事を超えて、白羽、父、母、図書、魔術、歴史。それぞれが渦巻き、眠気と共に溶け合っていく。
 ただ、とうとう寝付いた総一郎の口元には、朗らかな笑みだけが張り付いていた。

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