武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

6話 白の中の黒(2)

 起きると、そこは教室だった。ファーガスは、ここに寝かされた理由を、何度も繰り返される破壊音によって思い出す。
 今少年たちが生きていられるのは、ドラゴンをも弾く結界があるからだった。しかし、話ではもって一日だとされている。ここに寝かされたのは、少しでも結界を強くするためだと聞いていた。守る範囲を、狭めているのだ。
 厩舎を守ろうとすると、結界の寿命が縮む。その上、すでに壊されているようだった。瓦礫が、窓の外から見えた。ファーガスはそれを見つめ、一度息を呑んでから、諦めた。
「無理にこっちに来させちゃって、ごめんな、アメリア。すぐ俺もそっちに行くから、寂しくても、少しだけ我慢しててくれよな」
 頭上から降ってくる、断続的な破壊音。結界を、ドラゴンが破ろうとしているらしい。これが破られればオーガ達も解放されてしまうのだという話を、昨晩ワイルドウッド先生に説明された気がする。見回すと、ネルが居た。目に手を当てて、呻いている。
「……よう」
「……おう、ファーガスか」
 ネルは、元気が無かった。視線を伏せ、「何だかなぁ……」とぼやく。
「酒盛りしてた自分が恥ずかしいってのかな。でも、やれる事もねぇんだよ。二日酔いで頭ガンガンしてんのに、迎え酒で治すことも出来やしねぇ」
「迎え酒は体に悪いとかいうから、止めとけよ」
「……そうだな。生きて明後日を迎えられれば、止めることにする」
 自嘲気に、彼はそう言った。ファーガスは、破壊音の方角に目を向ける。
 窓の外には、雪が降っていた。はらはらと、積もっていく。昨日から、降り始めたのだ。それがずっと続いていて、やはりドラゴンが雲を集めてきたのだろう、例年見ない積もり様だ。
「何にも、出来ないのか?」
「出来ねぇよ。あのドラゴンを追ってた騎士団が、上手い事奴を殺してくれるのを待つだけだ」
 ドラゴンは、天災に良く例えられる。ベテランで、死に物狂いの騎士が、何百人も決死の攻撃をして、やっと殺すことが出来る天災。
 教室の同級生たちもしばらくすると次々起きだして、誰も彼も、何秒かに一回響く破壊音の度に身を竦ませていた。ファーガスは、しばらく俯いていた。だが、とうとうに立ち上がる。
「……どうしたんだよ」
「なぁ、ネル。俺達はさ、……多分、死ぬんだろ?」
 ネルは、答え辛そうな様子もなかった。肩をすくませて、「ああ」と言う。
 それを聞いた同級生たちは、怒声を上げた。だが、二人はそれを黙殺したまま、話を続ける。
「だからさ、ちょっと最後にこの校舎を見て回ろうって思ってさ」
「そうかよ」
 行って来いよ、と言われ、首肯した。クラスメイトの怒号はネルに向かって、ファーガスは気にもかけずに教室から出た。あいつの事だ。何を言われたって心配はない。
 近いから、アンジェの元に赴いた。彼女はファーガスを見つけるなり、涙を零しながら駆け寄ってきた。腰のあたりに抱きつかれる。
「ふぁ、ファーガス先輩……!」
「おいおい、泣くなよ」
「だって、このまま、みんな死ぬんですよ? 怖く、無いんですか?」
「……正直、分からない。俺って貴族の出じゃないからさ、黒いドラゴンってのがどれだけ怖いのかが、ピンとこないんだ」
 伝承自体は、知っている。歴史の授業でも、学ばされる。国を挙げて、戦ったドラゴン。伝承では奴らはドラゴンを将として、数多の亜人と共に襲い来たらしい。そこで武勲を立てた者が、現在の貴族の大半を占めているのだ。
「私たちも、歴史みたいに全員殺されるんです。いえ、それだけじゃないですよ。国中の、多分、半分があの黒い龍に殺されるんです……!」
 アンジェは今、真面ではなかった。手は病気かと思うほどに激しく震え、もはやファーガスの存在を正しく認知しているのかも疑問だった。同じクラスらしい女子生徒が、「すいません」と謝って、彼女を引きはがした。その顔は、涙と鼻水でぼろぼろだった。
 その場から去り、途中でローラを羨ましく思った。彼女は、素晴らしい悪運に恵まれている。ドラゴンの前日にここを離れたのだ。ちょっと笑ってしまう位の運の良さである。
 修練場を渡って、イングランドクラスに行った。その途中、件のドラゴンの姿を見ることになった。――ああ、何度見ても、黒い。漆黒の、一枚でファーガスの盾をこえるだろう頑丈さだろう鱗で、見上げるほどの巨躯が包まれている。前足を振りかぶり、結界へと一撃。耳障りな破壊音と共に一瞬現れる罅は、もはや空を覆うようだ。
 奴はファーガスを睥睨し、再び修練場の真上に一撃を入れた。すぐに消え、さらに一撃。ヒビが、着々と大きくなっている。これが結界全体に及ぶようになったら、結界は砕け、何もかもが蹂躙されるのだろう。
 イングランドクラスに着くと、ベルが居なかった。昔のクラスメイトに聞くと、彼女はつい先ほどいなくなってしまったと聞いた。彼女を失うという恐怖が、その時実体となってファーガスを苦しめた。
 走った。学園中を、走り回った。外聞なんてものを気にはしなかった。だから、修練場で駆け足気味のベルを見つけた時、酷く彼は安堵した。
「ベル!」
 名を呼ぶと、彼女はこちらを向いた。涙がすでにいくつも落ち、目元が赤く腫れていた。彼女は少年の名を呼んで、その胸に飛び込んでくる。その華奢な体躯を、力いっぱい抱きしめた。
「ファーガス、ファーガス……! 私、あり得ないのにっ、見つけださないと君が死んでしまうんじゃないかって、心配で……!」
 珠のような涙の連なりを見ていると、ファーガスは失いたくないと思ってしまう。永遠に、失いたくない。ベルを自分から奪おうとするものを、俺は――
「ベル」
 名を、呼んだ。少女が顔を上げたのを見つめて、キスをした。彼女は目を白黒させて、結局ファーガスを受け入れた。目を瞑り、頬をりんごのように染めている。そして、再び人粒の涙がこぼれるのだ。
 唇を、離した。少女は「ファーガス……」と少年の名を呼んで、再び滂沱のような涙を流し始める。
「ファーガス、ファーガス。好き、好きだよ。誰よりも、何よりも。だから、もっと強く抱きしめて……」
「……」
 嗚咽交じりの声に、ファーガスはベルを抱きしめることで答えた。彼女は、ファーガスの腕の中で泣きじゃくる。それこそ、赤子のようだった。
「ベル、愛してる。お前の、銀色の髪が好きだ。お前の、真っ白な肌が好きだ。少し甘えん坊で、猫に目がなくて、普段は格調高い話し方なのに、二人っきりになると崩した英語を使うようなことろが、本当に好きなんだ」
「私も、愛してる。私のために、命まで投げ出してくれる君が、誰よりも心配で、誰よりも好きなの……!」
 二度目のキスは、ベルからだった。しょっぱい、涙の味がした。ファーガスの、彼女を奪われたくないという気持ちが強くなる。こんな理不尽なことが、あっていいのか?
 しばらくベルを宥めてから、「今、付き合いの深い人たちに別れを告げてきてたんだよ」という事を伝える。もう、粗方それも終わってしまった。――いや、まだ一人だけ、残っている。
「ちょっと、ソウイチロウの見舞いに行かないか」
「……そうだね、付き合うよ」
 二人は、手を繋いで歩き始めた。彼は、一応スコットランドクラス所属という事で、スコットランドクラスの医務室に運ばれたと、ワイルドウッド先生に聞かされた。
 医務室には、彼以外の何物も存在しなかった。ただ、ソウイチロウだけが無垢な寝息を立てている。その服装は、先生方に着替えさせられたのだろう、入院患者そのものだった。
「……なぁ、ソウイチロウ。お前、ドラゴンと戦ってたのか?」
 ファーガスの言葉に、ソウイチロウは答えない。視線をずらすと、患者服の端から見える異形の右手があった。人間の物ではない。ソウイチロウが何と人間のハーフなのかを教えられていなかったが、何だったのだろう、と考えてしまう。
 見る者に、背筋の凍るような感覚を抱かせる、外見だった。
 ベルは、それに手を伸ばし、しかし触れることが出来なかった。その気持ちは分かった。吸い込まれるような魔力をその右手は持っていて、しかし恐怖心が近づくにつれて増し、最後には触れようとした自分を知って恐怖するのだ。
「他には、仲間が居たのか? もしかして、一人で戦ってたのか? そんな訳、無いよな? いくらお前だって……」
 ソウイチロウは、目覚めない。だが、彼に仲間が居たようには思えなかった。たった一人で、戦ってきたのだ。やろうと思えば、こんな少年にだって、出来る事なのだ。
 ファーガスだって、本当に心を決めれば、ドラゴンを屠る事も可能だろう。
 だが、その先にあるのは阿鼻叫喚の地獄だ。それを防げるだけの力が、自分に備わっているのか。自信はない。しかし、それ以上に今、ベルを失うことが恐ろしかった。
 この『能力』から逃げるためにファーガスは騎士になった。この『能力』以外の確固たる力を、果たして自分は手に入れられたのか。
「……ソウイチロウ。何で、お前はそんなに強いんだよ。俺にも、分けてくれよ。その強さが、羨ましいよ……」
 ファーガスは、泣いていた。ドラゴンを直視しても感情は動かなかったのに、ソウイチロウを見ていると、泣けてきてしまった。ベルは、困惑した風にファーガスとソウイチロウとの間で、視線を右往左往している。
 その時、ぴょんとファーガスの膝に飛び乗る小さな動物がいた。それを見て、ファーガスは歓喜に震える。
「アメリア! お前、生きててくれたのか!」
 彼女は少年の喜びに、答えるように一鳴きしてからその顔を舐めた。そして、いつの間にか懐いていたのか、ベルの膝に飛び移って何も知らない無垢さで暖を取るように丸くなる。
 ベルはそれを見つめて、酷く優しそうな顔をした。「よく見たら、雪だらけじゃない」と言って、固まって氷のようになった粒を取り払ってその背中を撫で整えていく。
 それを見て、少年は守らなければいけないと決心した。もはや、迷ってなどいられない。
「……ベル。お前は、アイルランドクラスに行っててくれ」
「え? 一人でって、事?」
「いいから、頼むよ。アンジェがさ、酷いんだ。混乱してて、ずっと泣きじゃくってる。あいつも猫好きらしくってさ。アメリアを抱かせたら、落ち着くと思うんだ」
「何で? 何で、それを私に頼むの? ……嫌だ。ファーガス、馬鹿な事を考えるのは止めてよ。私は、君の亡骸なんか見たくないよ!」
「大丈夫だ、ベル。落ち着いてくれ。……俺だって、勝算のない戦いに身を投じるつもりなんてない。死ぬだけなら、ベルと一緒がいい」
「駄目だよ! そんな、勝てる訳……」
「そもそも、戦うなんて言ってないだろ? 見物しに行くんだよ。どうせ、結界からは俺だって出られないんだから。大丈夫。すぐに戻ってくる」
 だから、信じてくれ。そのように言ってほほ笑むと、ベルは涙を零しながら、「絶対だから。絶対、帰ってきてよ」と歯を食いしばりながら言ってくれる。ファーガスは、ベルを引き寄せて頬にキスをした。そして、彼女を顧みずに部屋を出る。
 外に出た。ドラゴンの足元だった。灯台下暗しとでも言おうか、奴はファーガスの存在に気が付かない。
 そこで、しばらく胡坐をかいて座っていた。雪の上でも、寒くなかった。昼飯には、昨日食べなかった三人への茶菓子を食らう。酷く、甘い。
 もしかしたら、騎士団の一太刀が駆けつけて、夕方までにドラゴンを討伐してくれるかもという、叶わないだろう願いがあった。しかし、誰一人そこには現れなかった。「だろうな」と一人呟いて、彼は立ち上がった。
 夕方になった。晴れ間がのぞき、白い雪をぼんやりと橙色に染めている。
 ドラゴンの攻撃に走るヒビは、とうとう地面にまで到達しようとしていた。音も、金属的なものになっていた。薄い、何層にも重ねられたガラスが、砕けるような音。それが、耳鳴りがするほど近距離で響いている。
「オーイ!」
 声を張り上げると、ドラゴンは一度で気付いてこちらに顔を寄せた。黒く、神々しささえある、偉大なる龍の王。かつてUKを壊滅寸前にまで追いやった覇者に、よく似た災害。
 奴の攻撃は、ファーガスの近くで行われ始めた。腰袋から剣と盾を一つずつ取り出して装備する。もう、終わりだと思った。結界は、壊れる。
 音が、辺り一帯に響いた。ガラスそのものだと、ファーガスは思った。結界を取り除くと、奴の威圧感が遮るものなしに伝わった。強風に吹かれたような幻覚を見た。仰け反り、直立することも初めは叶わなかった。
 ファーガスは、使うぞ、と思った。だが、肝心の場面で、震えた。過去の記憶が、まざまざと蘇った。少年は、泣き声で言う。歯をカチカチと言わせながら、嗚咽交じりの声で懇願する。
「た、頼むよ。貴方達の、二倍の数の命を救うために使うんだ。だから、お願いだよ。使っても、いいだろ? 頼むから、許してくれよ……!」
 勝手な言い分だった。赦しは、当然下りなかった。だが、ファーガスは『使った』。黒龍の一撃に、少年はちっぽけな盾を翳した。
 隕石を思わせる音が響いた。ドラゴンの爪による攻撃は、凄まじいまでの反動を持って弾かれた。奴の腕は既にぼろぼろだ。鱗はほとんど剥がれ、爪は砕けている。
 二撃目。反対の腕が来て、同じように防いだ。どちらの腕も、全く同一の末路を辿った。赤々とした大量の血が、蛇口をひねったように垂れ流れている。
 ドラゴンは、息を吸い込んだ。火を吐き、ファーガスは防ぐ。炎は全て防がれ、ドラゴンは自らの炎に焼かれた。悶え、苦しんでいる。
 ファーガスは、剣を掲げた。その手は、今にも取り落としてしまいそうなほどに強く震えていた。自分から、攻撃する。それは、少年のトラウマを深くえぐっていた。
 そして、その剣は振るわれた。一太刀目に片腕が落ち、もう一太刀で両腕になった。三度振るわれ足が落ち、四度目でドラゴンはダルマになった。
 最後の一太刀で、首が落ちた。
 ファーガスは、剣も盾も落とし、顔を覆った。強く、歯を食いしばる。耐えきれずに絶叫した。
「こんなの、戦いじゃねぇよ! 虐殺以外の、何だってんだよ!」
 うずくまり、号泣した。泣き声は、虚しく響いた。
 そんな少年に、声を掛ける者があった。
「……何を、泣いているんだ。ファーガス」
「え……」
 振り向くと、ソウイチロウが半眼でこちらを見つめていた。着替えたのか、しっかりとした服装で居る。彼は少年からすっと視線を外し、八つ裂きになった龍に目を向けた。
「これは、君が?」
「……あ、ああ……」
「そっか」
 強いね、とだけ。それ以上の事を、彼は言おうとしなかった。そのまま通り過ぎようとしたから、呼び止めた。
「そ、ソウイチロウ。お前、何処へ行くつもりだよ。お前の居場所は、ここだろ? 帰ってきたんだろ?」
「違うよ。僕は、ドラゴンを殺しに来ただけだ。その場所が、たまたまここだった」
「でも、居なくなる理由だって無いだろうが! なぁ、頼むからいてくれよ!」
「……ごめん。これから、最後の龍を殺しに行かなくちゃならないんだ」
「最後の龍? 何だよ、それ。じゃあお前は、ドラゴンを殺してきたっていうのかよ。そんな、ぼろぼろで、たった一人で……」
 ファーガスは、気付けば再び涙を流していた。訳も分からないまま、言葉を発している。ソウイチロウは、それをやんわり否定した。
「僕は、いつもはあんまり苦戦しないよ。今回だけだ。ここまで追い込まれたのは」
 ごめんね、と彼は謝ってきた。ドラゴンは、自分を追ってきたのだと彼は語った。ここに墜落しなければ、君の手を煩わせる必要は無かったと。
 そして、居なくなろうとする。ファーガスは、必死に呼び止める。
「何で、何で行っちゃうんだよ! ドラゴンなんて、騎士団に人に任せればいいだろ?」
「僕も、一応騎士団の一人なんだけど」
「そんな事言ってるんじゃない! 総一郎一人がそんなに頑張る必要は、無いって事だ!」
「そうだね。でも、ドラゴンを殺さなくては、何をしていいのか僕には分からないんだ」
「そんなの、みんな一緒だろ!? 皆、何で自分が生まれてきたのかも分からないままに生きてんだ! 俺だってそうだ! でも、必死に頑張ってる」
 ソウイチロウは、苛立ち始めたようだった。眉を顰め、「ねぇ」と問うてくる。
「ファーガスは、一体何が言いたいんだ? そもそも、何で僕を呼び止める。友達だって言ったって、付き合いがそこまで深い訳じゃないだろう? 何でそこまで、必死に……」
「お前は、昔の俺に似てるんだよ!」
 彼は、少年のその言葉を聞いて、意味が分からないという顔をした。見るからに不快そうな表情だ。
「君に、僕みたいな時期があったとは思えないけれど」
「あったんだよ! ずっとずっと昔に、あったんだ! 俺以外は知らないけど、あったんだよ……」
「……話にならない。僕はもう行くよ」
 強硬に立ち去ろうとしたから、思わずファーガスはソウイチロウの手を掴んでいた。その反応は苛烈だった。彼はまるで、怯えを全身で表現するかの如くその手を払った。
 少年は衝撃を受ける。ソウイチロウから見てさえ、この『能力』は異常なのだと痛感させられた。彼もこの反応にだけは罪悪感を抱いたのか、「済まない」と小さく言う。
 取り繕うような口調でだった。
「君は、強いね、ファーガス。僕なんか、あの黒い龍に何度挑んでも勝てなかった。それを、これほどまでに一方的に殺した。……僕を捕まえた時だって、こんな風に出来たんじゃないか、君は……」
 ソウイチロウの歯の根は、段々合わなくなって言った。彼は踵を返す。逃げるような慌ただしさがあった。
 それでも言い逃げされるのは悔しくて、何か呼び止める言葉がないかと探した。ファーガスは、ソウイチロウが右手に手袋をつけているのを見つけた。考える前に、言っていた。
「お前の右手、見たぞ」
「……は?」
 ソウイチロウは、足を止めた。振り向いた顔は、今までの無感情の物とは大違いだった。悪鬼が如き顔つきで、彼は詰め寄ってくる。口調も、心なしか荒い。
「おい、ファーガス。君が僕の右手を見たから、何だってんだ。気味が悪いと思ったって? 気持ち悪いって? そんな事は十も承知なんだよ! 誰の右手だと思ってんだ!」
 ファーガスはその怒気に当てられて動けなかった。言うだけ言って、ソウイチロウは道端に唾を吐き捨てて遠ざかっていく。マナーの授業を受けていないのに、ファーガスよりもしっかりしていた。それが悲しくって、追いすがるように言葉を掛けた。ソウイチロウは、振り向かないまま歩き続ける。
「ソウイチロウ! お前、それでどうするんだよ! ドラゴンを皆殺して! そんな訳分かんねぇ右手に悩まされて、それでお前、何になるんだよ!」
「それが分かれば、僕はこんなに苦しんでなんかいない!」
 ソウイチロウはこちらに目も向けず、しかし立ち止まって、嗚咽の混じった怒声を上げた。風が吹き荒れ、ファーガスに痛いまでの雨粒が当たった。見れば、空にはいつの間にか暗雲が垂れ込めている。嵐だ、とファーガスは思った。嵐の様に、泣いている。
 風は唸りを上げ、見る見るうちに強くなった。ファーガスは転び、立ち上がる事さえできない。これも、ソウイチロウの所業なのか。どれだけの術を、彼は持っているのか。
 ついには、眼も開けられなくなった。そして、解けていく。目が開けられるようになったときには、ソウイチロウの姿はもう何処にもなかった。空を見上げる。小さな影が、宙を飛んでいる。
「ソウイチロウ――――――――――――――――!」
 少年は、叫んだ。きっとそれは、届かなかった。

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