武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

4話 胡蝶の夢(5)

 クリスタベル・アデラ・ダスティンとは、良くファーガスを介して茶会を開く仲だと言えた。
 メンバーはいつも、ファーガス、ベル、ファーガスの愛猫のアメリア、そして自分の三人の一匹で行われる。ベル、と言う愛称で呼び始めたのは、最初のお茶会で妙に打ち解けた時からだ。女性は議論を嫌うという話を聞いたことがあったが、あの時の雑談は議論染みていた割にかなり盛り上がった。もっとも内容など全く覚えてはいないのだが。
 最近ではもっぱら二人の仲をからかうのが総一郎の役割で、普通こういうデリケートな話題などそう触れられるものではないのだが、二人に関してはいくら突いても関係に難が出るという事がない。必ず彼らは互いに一瞬だけ見合って、すぐにそらし、赤面し合うのだ。傍から見れば早よくっ付けという感じである。もっというなら爆発すべきだ。
 とはいえ、ファーガスは少々遠慮してくれているというか、会話の中心に総一郎を据えたがるところがあった。そういう時、総一郎はベルと様々な事を語り合う。同調し合うというよりは、やはり議論めいていた。冷静に、ある事柄について掘り下げていくのである。
 例えば、こんなことを話したことがあった。
 お茶会では、毎回ベルがティーバックを引っ提げて来てくれる。それをいつものように相伴にあずかっていると、総一郎はふと思い立って、こんなことを言ったのだ。
「ところでさ、ミントティーって不味いよね」
 議論、勃発である。
「……何をもってそう判断したの? ちょっとよく聞かせてほしいんだけど」
「え? あれ、逆鱗触れた?」
「ベルは基本、紅茶なら何でも行けるからな」
「ああ、なるほど。……果たしてミントティーが紅茶なのかどうかは、今は置いておくとしよう。で、先ほどの質問に返答させてもらうけど、ベル。僕がミントティーを不味いと評したのは、歯磨き粉の影響が強いかな」
「そう、……なの? 私からしてみれば、特に同じ味とは思わないけれど」
「イギリスの奴はちょっと違うね、確かに。ただ、日本のそれはドンピシャでミントティーの味がするんだよ。だから、何とも不味く感じてしまう、という訳だ」
「でも俺、チョコ味の歯磨き粉使ってるけどチョコ好きだぜ?」
「えっ、幼稚園児?」
「ソウイチロウ、もっとこう、オブラートに包んでだな……」
「ファーガスの話に乗っかって言うなら、ソウの説明は間違っていることになるね」
「うーん。そうかもしれない、けど、嫌いなものは嫌いだから仕方ないさ。逆に聞くけど、ベルは緑茶好き?」
「……飲んだことがない、かな。けど、ソウ。その質問はちょっと論旨から逸れてはいない?」
「そもそもの主旨って何さ」
「ミントティーは美味しいか、否か」
「よっ、本日の議題であります!」
『ファーガス静かに』
「何だよ二人とも、偶には俺だってボケたい時があるんだよぅ……」
「私はミントティーを美味しいと断定する。ほのかに甘く、何よりあのすっきりとした後味からして、不味いと評すべき点は一切存在しないはずだよ」
「むむ、言葉にすると中々反論しにくいな。しかし、それは普遍的なものではないよね? 人には人の好みがある。ドクターペッパーが何よりも好きな人も居る一方で、絶対に飲みたがらない人だって多い。ちなみに二人はどっち派? 僕は結構好きだよ」
「あれは人間の飲み物じゃない派だな」
「三日間連続で飲むと確実に飲む習慣がついて止められなくなる派だよ」
「……ちょっとこの事も話題の槍玉にあげたくなったけど、ひとまず後回しにしておこう。ともかく、人の好みに当てはまるかどうか、その中でもとりわけ、この場では僕の味覚に適合するかが問題になっている訳なんだ。それを否定するという事の意味を、君は分かっているのか?」
「なんかだんだん話が壮大になって来たぞ」
「いいや、それでも私は否定するよ。君が不味いというのは、間違いなく先入観の所為だ。日本での歯磨き粉の味に似ているから、というね。でも、ファーガスのチョコ味の歯磨き粉の話が、それを否定した。なら、この場でもう一度ミントティーを呑んで、先入観に囚われなくなったソウは、果たして再び、ミントティーを不味いというのかな?」
「話についていけないのは俺が馬鹿だからなのか? それともこいつらが馬鹿なせいなのか?」
「そういう風に言われると、少し自信がなくなってくるね。かつて味わったミントティーの記憶が曖昧になってくる。と言うかミントティーって言葉が半ばゲシュタルト崩壊を起こしてるけど、……そうだね、今飲んだら、もしかしたら美味しいかもしれない」
「ふふふ。今回の議論は私の主張が通りそうだね。じゃあ、急いでミントティーのパックを持ってくるから、待っていて」
 席を立ち、てててと走っていくベル。手を振って見送る総一郎。彼女の姿が見えなくなってから、ぽつりとファーガスに話しかけた。
「ミントティーってさ、ミントから精製したお茶の事で合ってるよね?」
「マジにゲシュタルト崩壊してんじゃねぇよ。合ってるから。そしてミントはちゃんと歯磨き粉の味付けに使われてるから」
「うん。……何かさ、僕もしかしたら違う紅茶の葉っぱの話をしているのかと少し不安に」
「おーい! 取って来たよー」
「帰ってくんのクソ早いなアイツ」
 てててと戻ってきたベルは、すでに魔法瓶の中にミントティーを入れていたらしく、そのままティーカップに注いだ。何でも、食堂に問い合わせたら余りがもらえたのだと。
 総一郎は、ミントティーを目の前にして香りを嗅いだ。爽やかな、ミントの匂い。歯磨き粉などという事は考えず、心を静かに保った。そして、視線が集まるのを感じながら、一口付ける。
 ベルの喉が、ごくりとなった。真剣な目で、見つめている。それに総一郎は慈愛の微笑みを浮かべて言うのだ。
「いや、やっぱ不味いよこれ」
 と言う風に、馬鹿馬鹿しい事まで喧々諤々と真面目な意見を飛ばし合う、ある意味これ以上ないほど誠実な間柄であったのだが、そんな風に茶会のイメージの強い彼女だったから、修練場で遭遇した時はそれなりに驚かされたものだ。
「……君も、こういう所に来るんだね」
「うーん、まぁ、他の皆が頑張っているからね。私だけ怠けるという訳にもいかないよ」
 苦手ではあるけど、と呟くベルの姿には、何となく哀愁が漂っていた。それだけ争いごとに向かない性格をしているという事は、度々話すことで理解できた。だが、それでも彼女が弓を携える姿を見ると、ある光景が脳裏をよぎるのだ。
 奇妙な光景である。ファーガスの話を聞く限りでは、恐らく在った事ではあるのだろうと考えていた。しかし、記憶は情報に忠実ではない。
 恐怖したような表情で居ながら、的確に要所を矢で射ぬき、その上でファーガスの刻んだ弱点の印に矢を射たベルの姿。鬼の魔の手が来ようと、怯えを一層大きくしながらも安直に手を狙わず、足を地面に縫い付け横倒しにし、ほぼゼロ距離から必殺の一撃を放っていた。
 ベルと疑わしきその少女の動きには、鬼気迫るものがあった。同時に、既視感も。その正体は分からない。だから、ずっと気になっていたのだ。
「ならさ、折角だから模擬戦をしない?」
「えっ? 私と、ソウが?」
「うん。とはいっても、手加減は勿論するよ。それに、もしかしたら負けるかもしれないし。そうすると名前に箔が付くよ?」
「いらないよ、箔なんて……。それに、勝てる訳ないじゃない。私は一騎士候補生で、君は騎士学園を半ば敵に回して数か月生き延びた男だよ?」
「言葉にすると凄いような気もするけど、一度に戦った人数なんて高が知れているからね。とにかく、やろうよ」
「強引だなぁ……。ファーガスには内緒だよ?」
「いやごめん、内緒にする意味が分からない」
 そんな風にどこか気の抜けた会話をしつつ、総一郎は剣を構えた。早朝の修練場は、この学園が神域であることを強く意識させる。黙っていれば、何も聞こえない。ただ、景色が白んでいる。
 早朝、夜は、総一郎の時間だ。昼間は、奴らを避けて生きている。
 ベルが、練習用の矢をつがえた。一呼吸。総一郎は踏み出し、駆け出す。
 様子見に、手心と迫力を込めて近づき、木刀を素早く突き出した。ベルは、反応しない。少々引きつったような表情で居はするが、攻撃が当たらないことを理解した上で動かないでいる。
 矢。至近距離だったが、軌道が見え見えで避けやすかった。総一郎は後退する。ベルも再び矢をつがえながら、文句を言った。
「手加減なんて言いながら、結構本気じゃないか!」
「え……? 怖がらせはしたけど、全く力は籠めてないよ、僕」
「怖がらせ、……?」
 戦闘で怖がらせる、と言う発想が、全くベルには無かったらしい。ぽかんと口を開けて、こちらを見ている。
「じゃあ、試しはこんなものでいいね。ベルの実力の程度もある程度掴めたし。ここからは、聖神法込みで来ていいよ」
 総一郎は木刀を手元で一回転させ、息を吐き出した。完全に肺を空にして、三秒。息を吸い始め、満タンにしてから、十秒。
 吐き出す。腰に杖に軽く触れ、『ハイ・スピード』を発動させてからベルに向かって一息に近づいていく。
 ベルは総一郎の気の入りように驚いたような顔をしていたが、それでも矢を放つのを忘れなかった。狙いが、微妙にずれている。これなら叩き落とすまでもないと判断した。
 それが、唐突に二つに分かれて腕に絡みついた。
 総一郎は呼吸を忘れる。駆け足は瞬間止まり、ベルの第二射を許すことになった。飛んでくる。二本。だが、総一郎の足元に刺さった。それが結界と化し、行く手を阻む。
 ベルの搦め手の上手さに、総一郎は驚愕した。腕に絡まった矢はすでに取れていたが、彼女に近づくのはより困難になった。ベルは淡々と矢を放ち続け、結界を大量にはられていく。よく見れば、その口は絶えず小さく祝詞を挙げ続けていた。
 これは、と思わせられるような実力の持ち主だった。しかし、この戦法は少々総一郎と相性が悪い。木刀を振るい、結界を破った。ベルはわずかに瞠目する。総一郎は不敵に笑いながら、再度彼女との距離を詰め始める。
 思い返せば、これが、この模擬戦でベルが示した最後の表情の変化だった。
 ベルは総一郎の木刀の脅威を知ってから、直接総一郎に矢を向けるようになってきた。三本が、一度に飛んでくるのだ。それを、切り払って進む。
 一本が、眼前に。それを叩き折ると、腕に二本目が掠る。三本目の矢は、必ず総一郎の真横を通り過ぎた。矢を避けようという動きをすると、当たる軌道だ。
 息が苦しくなる。久しい感覚だった。ネルと立ち会った時は、息を荒げはしたものの、苦しいというほどではなかった。けれど、今は確実に体力をすり減らされている、と言う気分でいる。
 汗。目に入るが、拭う余裕さえなかった。途中から、ベルではなく魔物と戦っているような心持になった。少しずつ、距離は詰まっている。しかし、届く気がしない。
 総一郎は素早く息を吐き、横に駆け出した。矢が追ってくるが、届かない。そのまま攪乱するように動き、相手に近寄っていく。五本の矢が、一度に襲い来た。二本を落とし、二本を避け、一本を食らった。足。怪我はしないが、痛みが総一郎の動きを鈍らせる。
 肉薄。とうとう、刃の届く距離にたどり着いた。しかし彼女は紙一重で総一郎の剣を避け、一本の矢を放つ。服に、刺さった。
「神よ、我が敵に聖なる鎖を」
 しまった、と思った時にはもう遅かった。服に刺さった矢が、急激に総一郎の負荷となる。一瞬背後を見て、分かった。今までの矢が、陣として機能しているのだ。服の矢を抜くことは難しかった。飛びくる攻撃を避けながらでは、木刀で効力を失わせることも叶わないだろう。
「――――――!」
 総一郎は歯を食いしばり、ただ重圧に耐えた。『ハイ・スピード』と敵の呪縛が相殺し合っている。気づけば離されていた空間。それでも、走った。脳の奥が、ちりちりと焦げ付いているような錯覚に陥る。
 視界の明滅。ふと、何かを見たような気がした。獣。己の姿。それ以上は、分からない。気づけばベルが眼前に居た。完全なる無表情。すでに弓を引いている。総一郎の木刀も、振り下ろす途中だった。
 その瞬間、彼女は我に返ったようにハッとした。
 矢が、放たれた。頬を掠り、飛び去っていく。総一郎は足を払い、のど元に木刀を突きつけた。ベルは地面に仰向けになり、総一郎はそれに覆いかぶさっている。
「……ほら、やっぱり負けた。勝敗が分かってることほどやりたいものもないよ、もう」
「いやいや、……そんな。拗ねるには、及ばないよ。剣と弓矢っていう相性の悪さももちろんあったけど、かなり苦戦させられた。これなら十分名前に箔が付くレベルだよ」
「ふん。煽てたって曲げたヘソはすぐに直す気はないよ。……ちょっと退いてくれる? うん、ありがとう」
 ベルは立ち上がって、久しぶりに汗かいちゃったよ、と額ににじむ汗を拭った。その後、彼女は軽く総一郎に別れを告げてから「シャワーシャワー」と言って小走りに遠ざかっていく。総一郎も一旦はそれを笑顔で見送って、姿が見えなくなってから、手をおろした。
「……手加減を、された」
 負けたとは、言いきれない。しかし、勝ちを譲られたことは確かだった。
 修練場を後にし、部屋に向かって歩いていた。ぐるぐると、言いようのない感情が渦巻いている。扉を閉めて、息をついた。
「ベルちゃん、強かったね」
 振り向く。だが、誰もいない。幻聴を疑いながら、前を向いた。ナイが飛びついて来て、総一郎の唇を奪う。
 右足を咄嗟に後ろにつきたてて、転倒だけは免れた。ひとしきり唇を吸ってから、唇だけ離して、焦点がぼやけるほどの近距離で彼女は微笑む。
「うふふー。今日も総一郎君の唇は美味しゅうございます」
「……あんまりふざけるなよ、ナイ」
「むー、相変わらずつれないなぁ、総一郎君は」
 少し後ろに下がって、ナイはにやりと笑いながら自分の唇を舐める。総一郎は口元を拭いながら、それを渋面で眺めた。いや、と思い直す。力を抜くと、表情が自らの顔から抜け落ちた。
 総一郎は、彼女に対して表情を作らない。作る気もないし、作らずとも心情を見透かされるからだ。
 ここの所、ナイは毎日のように総一郎の前に現れる。今日は違うが、大抵は夜だった。曰く「やるべきことはすべて終えてしまったから、暇なんだよ」との事。「それが僕の所に繋がる理由が分からない」と言えば、「ボクが君の事をとっても好きだから!」と返された。
 どうせ嘘に決まっている。
「嘘じゃないのになー。ふんだ。何を言っても信じてくれない総一郎君なんて嫌い!」
 べー、と舌を出すナイに、「それならここにいる必要はないね」と言って総一郎は一人シャワールームに足を向ける。
「ああ! ごめん、総一郎君! だからそんな拗ねないでよ、もう~」
「それで? 要件は?」
 無いなら帰れという意思を込めて、総一郎は尋ねた。小さな笑い声が返ってくる。
「……」
 沈黙。視線を、投げかける。含み嗤う様に、ナイは語りだした。
「総一郎君。君は今、非常に大事な時期に差し掛かっている。ファーガス君を通じて知り合った三人は、誰をとっても君と強い運命に結ばれているよ」
「それは、何? また、予言でもしようって?」
「ううん。彼らの事は、根っこの根っこまで素性が知れているからね。『君たち』とは違うんだ。そして、それを知ってあまりに数奇なものだから笑ってしまったよ。予言だなんてとんでもない! 知ってしまえば誰でも、これからの事は予想がつくよ」
「……つまり、何が言いたいのさ」
「――警戒してほしい。それだけだね、今のところは。一人は、君の生涯にかかわるとても頼もしい人物になってくれると思う。けれど、残る三人は全員、君と命のやり取りをすることになる。直接的にも、間接的にも、ね」
「君は、一体何を言っている?」
「さぁ? ……冗談だよ。あの子たちはみんないい子だから、全員と、仲良くするんだよ。いい? 返事は?」
「君に言われるまでもない。言いたいことが言い終わったなら、さっさと帰れ」
 総一郎は、無表情にナイを見つめた。彼女も、総一郎を見つめ返してくる。そして、わざとらしくため息を吐いた。「ちぇ」と言う。
「神様をそんな風に扱って、罰が当たっても知らないんだからね!」
 暗くなり始めたベランダの方へ駆けていき、ナイは総一郎に舌を出した。窓を開け、飛び出してしまう。総一郎はただ、開け放たれた窓を閉めに行くためだけにベランダへ立った。
 何の気なしに、ナイの消えていった方角を見つめる。呟きが漏れた。
「ナイ。君が、一体何考えているのか、僕にはさっぱり分からないし、分かりたくもない」
 総一郎にとって、ナイは不気味な存在の体現だ。しかし、総一郎が素で接することが出来るのも彼女だけだというのも事実である。
 何を考えているのか、分からない。だが、分かりたくもない、という言葉が真実なのかは、確信できなかった。
 ため息を吐いた。頭を振って、服を脱ぎ始める。

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