武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

6話 1/0≒∞ クルーシュチャ方程式の真偽 (3)

 ナイはあのデート以来、食事を作らなくなった。
 それが無意識なのか、それとも意識的なのか、はたまた、それに気付き惑いを見せる総一郎を陰で嘲笑しているのか、少年には判別が付かなかった。
 それ以外は、何ら変化なく日常は続いていた。ナイは相変わらず総一郎に引っ付くし、総一郎は相変わらずそれをうざったがったりほとんど無視して読書を続けたりする。
 総一郎は、演技が上手い。虐められっ子だった時に培った技術だ。しかしナイがどうなのかは分からない。彼女が自身の脳を保護していない限り、魔法によってその中身は読めるのだろう。しかしと、総一郎は疑う。それは、本当にしてもいい事なのか。
「どうしたの? 総一郎君」
「え? ……ちょっと考え事」
「ふぅん。何を?」
「『亜人社会論』。アメリカ社会における今の亜人の立ち位置とか、色々。面白いんだけど、それ以上に大変そうなんだよ」
 総一郎は、言いながら手元の本を差し出した。著者はサラ・ワグナー。ここでは、四国干渉で押し付けられずにそのまま残った亜人たちの歴史にまず触れ、その次に日本からの大量移民について論述している。彼らは全国に分散するのでなく、決められた地方都市でそれぞれ暮らしているらしい。けれど、場所によっては犯罪数が急激に上昇した場所もあるらしく、問題視されていると。温厚な日本人の性質を引っ張り出した意見もあって、中々に興味深かった。
 中でも総一郎の興味を引いたのが、『亜人はその国の性質に人間以上に染まりやすい』と言う仮説である。アメリカは先進国の中でも犯罪率が高い。日本に移った途端温厚になった亜人たちがアメリカに戻ってきて再び暴力的になったのは、そういう性質だからではないか、との仮説である。
 その必要以上に詳しい答えに納得したのかそうでないのか、ナイは曖昧な相槌を打って、また視線を宙に投げ出した。広いとも言い切れない程度の社の中心。二人は恋人のように寄り添いながら、その内面は奇妙の一言に尽きる。
 何も変わっていないのだと、総一郎は思った。元々、ナイが食事を作るのはあくまで気まぐれで、連日作る時もあれば音沙汰なしの時もあった。今が後者であるという解釈をすれば、本当に何も変わらない。いつだって総一郎にくっつき、散歩にも同行し、――何も、変わらないのだ。
 しかし、それとは別に、変わり続けている物がある。
「……天狗様、遅いね」
「そうだね。竜神ちゃんに関しても何か手がかりつかめた様子はないし」
 視線が、奥座にとぐろを巻く龍に向かった。総一郎は、未だに彼が動くところを見たことがない。そこに留まり続ける理由があるのか。それとも動けない程に衰弱しているのか。
 今は居ない天狗の弱りっぷりもまた、目を背けたくなるものが在った。毎夜疲れ果てて帰って来るのに、成果があるようには思えないのだ。そもそも彼が何を調べに行っているのかさえ、総一郎は知らない。
 その日天狗が帰ってきたのは、日付が変わって一時間した時だった。総一郎は早く寝た反動で中途半端な時間に起きてしまい、手持無沙汰でトイレのため寝床を発った所に、衰え行く老爺と遭遇した。
「天狗様……、遅いお帰りで」
「総一郎も、子供はもう寝る時間だろう」
「僕は一度寝たのが、妙な時間に起きてしまっただけです。トイレを済ませてから、少し本を読んでからまた寝ようと考えていました」
 そうかと疲れた風に言われ、はいと少年は、笑いを誘う様なハニカみ方をした。それに、天狗も少し息を抜いてくれる。
 社には電気が無い。それを総一郎が微弱な光魔法で照らしているから、薄暗い恐ろしさが社の縁に滲んでいた。
 こうしていると、まるで日本に居た頃を思い出す。得体がしれない恐ろしさの元凶がことごとく社会に進出したというのに、それでも夜は不思議な怖さが忍び寄っているように感じたものだ。駆け足で、その場を逃げる様に通り抜けるのである。
 今はそんな事はしない。だが、こんな事さえ懐かしく感じるのだから、自分でも変に思えてしまう。
 天狗が本殿に戻るのを横目に見ながら、総一郎は厠へ走った。戻ると、天狗が竜神の元に跪いている。どうやら、容態を見ているらしい。
「どうですか」
「芳しくないな。……いいや、こんなのは随分と控えめに言った表現だ。しかし酷い状態だとは、儂の口からは言いたくないのよ。分かるか、総一郎?」
「天狗様も随分と御弱りなのは、何となく」
 総一郎の返しに、天狗は豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。しばし呆然として、結局肯定される。
「そうよな、その通りよ。だというのに、休む暇もないのだ。調べても、調べても、何も出て来はせん。焦りばかりが募るばかりだ」
 笑みに疲労が滲んでいて、総一郎は悲しくなった。だが、休むよう進言しても、やはり受け流されてしまうのだろう。何か手は無いものかと考えていると、天狗の方から声がかかった。
「のぅ、総一郎。儂はこのままではどうかしてしまう。それ故、この骨休めの間に何か話をしてはくれないか」
 言われ、快諾した。あつかわ村の時の天狗の声音に、僅かだが戻ったと感じたのだ。あの、大笑いの似合う天狗に。
 けれど、受けたはいいが語るべきことに悩んでしまった。本の事を振っても天狗は困惑するだけだろうし、かといって最近の総一郎の生活と言えばほとんどルーチンワークである。そんな少年を見かねて、天狗は「そうよな」と語りかけてくる。
「そこで寝ている小娘の話などはどうだ。随分仲が良いと見たが、馴れ初めは何だ?」
「……えっ、と」
 硬直。視線を一度ナイに向けて、結局逸らした。ナイは依然として布団にくるまり眠りこけている。そんな少年の反応に、天狗は片眉を寄せた。
「何だ、上手くいっていないのか?」
「え、いや、その、上手くいってないとかじゃなく」
「上手くいっていないのでないなら、何故そんな反応をする。少なくともその物の怪は、総一郎を好いているだろう。お前はそうでないのか」
「……分からないです。この気持ちがそういうものなのか、そもそも、この気持ちが本物なのかどうかさえ」
「……何?」
 天狗は訝しんだ顔を作り、尋ねてくる。総一郎は語るべきかどうかを迷った。天狗がナイに敵対しても、余計に拗れるだけだ。他者に、この葛藤が分かる訳はないのだから。
 だから、総一郎はこのようにぼかす。
「若造は、つまらない事で悩むのです。本を読んでいると自分が賢いと勘違いしてしまうものですが、いざ壁にぶつかると簡単に狼狽えてしまう」
 前世の記憶は、まさにそれだ。本。映画。享受する物。本物の中身が無かった幼少時代は、それに強く引きずられた。
 少年の言葉に、天狗は笑った。そして、こう助言してくれる。
「狼狽えるも、惑うも、若造にしか出来ぬ。今は悩み続けろ、総一郎。いつか、それも出来なくなる日が来るのだ」
「その割には、天狗様は悩んでいるようですが」
「ふん、言うようになったな。だが総一郎、お前は還暦と言う物を忘れている。還暦を過ぎれば、何事も子供に戻るのだ」
「天狗様って一体何歳なんですか?」
「大還暦を少なくとも七回は過ぎたな。周りがその度に騒ぐから、それだけは覚えているのだ」
 大還暦とは何か。恐らく還暦の二倍辺りだとは思うが、それが七回とは。
 戦慄する総一郎に、天狗は笑った。大口を開けての高笑いである。眠っているナイの事を考慮して咎める目を向けると、天狗は察して済まなそうに項垂れる。
 そんな様子に総一郎はくすくすと笑い、天狗もまた、ナイを起こさない程度に再び小さく笑った。彼は、ひとしきり体を揺すってから、重い息を吐き出した。
「……のぅ、総一郎。儂は、随分と疲れていたんじゃな」
「そうですよ。亜人だって、疲れます。疲れたら休むのは当然の事。少しだけでも、僕に苦労をさせてください」
「あの小童どもを追い払ってくれるだけでもありがたいというに……。本当に、済まないな。感謝をしてもしきれん」
「あ、ちなみにですが、罠はまだかなり残っているのでしばらくは騎士の事を心配しなくても大丈夫かと」
「いつからお前はそんなに抜け目のない子供になったんだ……?」
 会話の翌朝、総一郎は初めて、眠り続ける天狗の姿を見ることになった。朝日が差す社の中で、布団を跳ね除け大の字だ。起きてきたナイが、「珍しいね」と言った。
 少年が朝ごはんを作って、皆で食べた。総一郎も生憎と日本食が作れなかったため、オーソドックスなイングリッシュ・ブレックファストだ。
 天狗はその後、二人に細かい事情を話した。調べて欲しい場所は風魔法に反応するような仕掛けをしてあるから、それを頼りに探してほしいとの事だった。非常に力強い風魔法でも、遠いほどの距離でもあるらしく、昼食代を多く持たされた。
 しかし、ナイは「今日はいいや……」と答えた。
「……何で?」
「えーと……、何となく、じゃダメかな? あっ、そうだ。今度のデートの為に、ちょっと新しい服を買いたかったんだよ」
「別に、ちゃんと言ってくれれば買ってあげるよ?」
「総一郎君に知られた服じゃダメなの! 可愛い服を選んで、総一郎君の度肝を抜く予定なんだから」
「……そう」
 不敵な風にニコニコするナイに、総一郎は何も言えなかった。言うが早いか、彼女はきょとんとした天狗から金銭を受け取って、社を出て行ってしまう。彼女の事だから下山しても騎士には見付からないと思うが、それでも歩きなら結構な距離のはずだろうに。
 もやもやとした気分のまま、総一郎は飛び立った。場所は方向を示されたため、真っすぐ飛んで行くだけでいい。
 時間は、それこそ飛ぶように過ぎた。途中の休憩で一人昼食を摂ったのは昼の二時頃だった。
 四時間か。と総一郎は厳しい顔をする。余分に金を渡されたから、帰りは何処か、ホテルで一夜明かしてもいいかもしれない。光魔法を使えば、店員の目も何とかなるだろう。
 そして、目的地に着いた。
 曖昧な情報しか聞いていなかったのに、迷うまでもなかった。
 そこは、草原だった。総一郎の、かつての野営地である。どういう事だと、少年は考える。不安に駆られながら、天狗の助言通り風魔法を放った。反応が返ってくるから、それを目印に進んでいく。
 目的の場所へ近づけば近づくほど、見覚えがあった。傍から見れば、変哲もないただの草原の一部なのだ。だが彼にとっては、十分なほどに因縁がある地でもあった。
 風魔法が反応した場所には、総一郎が殺したドラゴンの肉が在った。
 骨や核などは、騎士団が武器を生成するのに使うのだという。だが、肉は使えない。広い草原だから疫病が起こる心配もなく、放置の判断が下されたと、風の噂で聞いた。民衆が飢えてもいないのに、こんな肉の処理に人員を割くことは出来ないと。
 総一郎は、風魔法で自分を守った。病原菌が体内に入るのを嫌ったのだ。しかしその肉を調べるでもなく、少年は草の上に座り込んでしまった。そして、思考を巡らせる。
「……じゃあ、竜神様はこのドラゴンと同じだっていうのか?」
 腑臓の捩れるような不快感を、総一郎は覚えた。しかし、そうでなければ天狗がここに来ていた理由が分からない。ならば、何だ。このドラゴンも、これまでは竜神様の様に無害だったとでもいうのか。
 皮肉なことに、そう仮定すると辻褄が合った。今は死体となったこのドラゴンは、異様なまでの巨躯だったと言っていい。そして、魔獣にだって成長するまでの時間は必要なのだ。無害で、人間の前に姿を現さない限り、殺される事などない。
 では、ドラゴンが正気を失ってしまった理由とはなんなのだ?
 数十分考えていると、ふと、昨日読んだ本の内容を思い出した。『亜人は、その国の性質に染まりやすい』。しかし、普通のイギリス人は人格破綻などしていなかった。……けれど、何かが引っ掛かる。総一郎は、死肉の悪臭から逃れるべく立ち上がり、その場を離れた。視線を上げる。警戒を露わにした、角を持つ魔獣がそこに立っている。
「……」
 総一郎は、臨戦態勢に入った。この草原は、山などに比べると非常に少なかったが、それでも魔獣がいる為、警戒を怠るなと上官に呼びかけられたことが在った。だが、その魔獣を見続けて、答えが分かったような気がした。跳びかかられ、総一郎は土魔法と風魔法を応用して取り押さえる。
 そして、その特徴を細かく観察した。長い角を持つ馬。パッと見はユニコーンだ。しかし相違点が無いとも限らない。詳細に調べつくし、そして総一郎は横たわり抵抗すら出来なくなった魔獣を見て、落ちたトーンで言葉を紡いだ。
「……君たちは、日本では陽気にしゃべっていたじゃないか、ユニコーン」
 一角獣は、理性無き鳴き声を上げた。総一郎は、もう獣を見なかった。魔法で音もなく潰す。自分でも、無慈悲だと思う。
 空を睨んだ。方向は分かっている。風を、吹き荒らした。体重を軽くして、物理魔術へ魔力をつぎ込む。休憩を挟んだから、魔力は有り余っていた。そして、総一郎は弾丸のように飛んで行く。
 街へ着いたのは、夕方だった。
 一度休憩しておこうと思ったのだ。天狗や竜神を力づくでイギリスから追い出すには、飛び続けて力尽きた状態では難しい。夕食も適当に摂り、少しぶらぶら歩いて目がナイを探している事に気付いたりする。一時間休んで、山へ飛んで行った。
 街から山の間には、建物すらない区域が大体十キロ程度ある。とはいえ、道の整備だけはされていた。ここも、あの草原のようにドラゴンの出現頻度が高く放棄された地域らしい。
 赤色の空へ飛び続けて、山がやっと見えだした頃、何かがおかしいという事に付いた。
 山の上で、何か細長い物が飛んでいる。まさか、と総一郎は思い、速度をさらに上げた。余力を残せるギリギリの速度だ。これ以上あげると、勝てる自信が無くなる。
 近づけば近づくほど、悲惨な光景が少年を圧迫した。細長い物――恐らく竜神が、強風を渦巻かせ、膨大な量の炎を口から吐き出している。
 その所為で米粒の様に小さな騎士たちが、地獄さながらに燃え上っていた。総一郎は、これ以上速度をあげられない事をもどかしく想いながら、ひたすらに飛び続ける。
 そして、弾かれた。
 魔力の安定を失って、総一郎は宙に投げ出された。無意識の一瞬を突かれ、虚脱状態となった。地面から十数メートルの所で我を取り戻し、風魔法でゆっくりと着陸する。そして、寸前の自らを思い、身震いした。
 目を剥きながら、おずおずと総一郎は進み、止まった。手を伸ばす。伸ばせない。触れる事さえできない。――これは、一体何だ。
 眼前に、障壁があるらしい事を総一郎は知った。しかし、聖神法ではない。魔法でもない。他の何かと言うには規模が大きすぎる。
「……何だよ、コレ。どういう事だよ!」
 障壁を殴りつけたが、手応えひとつなかった。何もないのだ。ただ、進めない。頭を捻り、空間魔法を思いついた。虹色の球を召喚し、ぶつける。障壁が、音もなく崩れ落ちる。
 総一郎は、再び飛びあがった。考えるのは、この障壁の意図である。後ろに飛び去っていく景色を意識の外へ排し、順序立てていく。
 これは、一体誰によるものなのか。真っ先に脳裏に浮かぶのはナイだが、彼女は空間魔法の加護を総一郎に与えた存在だ。すぐに破壊できることは想定内だろう。ならば、誰だというのか。それ以上は切羽詰っていて、今は理解できそうにない。
「――もう、いい。竜神様をのした頃には、何もかもわかる」
 魔力の残量の事も考えて、山の麓で地面に下りた。焼死体が、いくつも転がっている。人の焼けた匂いは強烈だ。少年は鼻を摘まんで駆け抜ける。
 笑い声が聞こえた。天狗の高笑いだ。風を感じて、彼も騎士たちを嬲殺しにしていることが分かった。総一郎は思考を放棄し、白痴のように走り続けた。物理魔術での加速は燃費がいい。疲労を考えなければ、魔力は尽きる事が無いだろう。
 山を駆けあがり、霧に突っ込んだ。現存する罠は全て自分の手によるもので、避けるのも容易だった。社に着く。中に入る。
 ナイが、そこで死んでいた。
「……え? 何で」
 躰から、力が抜けた。弱い足取りで、近づいていく。ぶちまけられた内臓。血濡れの床板。総一郎は、血だまりに膝下を赤く濡らした。
 自失していた。視線が、ナイを射貫き続けている。死因を、彼女に触れないまま観察した。乱暴な傷痕だと少年は思う。鈍器などで無理に肉が千切れれば、こんな傷が出来るのかもしれない。例えば、そう。天狗などが使う酷く強力な風魔法などだ。
 手が、震えた。言い様もない虚脱感が下りた。何をする気にもなれなかった。口に手を当て、息をしていない事を知った。次に、彼女の光無き瞳を覗く。
 ――だが、瞳孔は開き切っていない。
「生きてる」
 喜びと、焦燥が下りた。しかしぬか喜びが怖く、脈も確認した。弱い。すぐにでも途切れそうなほどに弱い。だが、生きていた。決して死んでなどいない。
 震えだす手で、木魔法をベースにした生物魔術を展開させた。破れた内臓を縫い、腹に戻し始める。ナイ、とその名を呼んだ。執拗に、繰り返した。涙が零れる。それを拭う。
 治療は、上手くいかなかった。医療知識不足と言うのもあったし、自分がナイを死なせてしまうのではと言う恐怖が在った。彼女の内臓が手から滑り落ちた時、全て終わりだと思った。必死で、ナイの生死を再確認する余裕もない。分からないまま、手を動かしていた。
 その拍子に、ナイが、何かを言った。
 総一郎は、手を止める。
「ナイ? ナイ! 意識があるの? ナイ!」
 ナイの焦点は合わなかった。意識を取り戻したのではないと総一郎は知った。口は、有るか無きかの言葉を紡ぐ。少年は音魔法で、その音量を引き上げる。
 酷く擦れた声だった。主旨も、判然としない。
「総一郎君。時間稼ぎ、間に合った? 計算では、間に合う予定なんだ。君が泣いてくれると、ボクは嬉しいな」
「……ナイ、何を言ってるんだ? 僕はもう、とっくに泣いてるよ」
「君はその頃何を見ているのかな。真っ白な世界かな。ボクの死体は、恥ずかしいから見ないでよ。多分、跡形もなく消えているのだろうけれど」
「死体なんて言うな。助けるから。だから、そんな事言わないでよ。頼むから……っ」
 半分以上失われた小腸の遺伝子を少々貰い、木魔法と雷魔法の応用で、遺伝子操作により新しいナイの小腸を作り上げた。崩れた部分を摘出し、縫い付けていく。
「天狗ちゃんも、竜神ちゃんも、可哀想だったね。ボクは、見ていることしか出来なかった。やっぱりさ、世の中で一番残酷なのは、人間なんじゃないかな。それとも、そう思うのはボクだけなのかな」
「僕だってそう思う。君は、偽りかも知れなかったけれど、優しかった。僕は、君が好きだったんだよ、ナイ。君を信じられなくても、好きな事には変わりは無かった」
 血が足りない。内臓は、どうにかなる。だが、血に関してはどうしようもない。何か手はないのか。そもそも、ナイの血液型は一体何なのだ。
「ねぇ、総一郎君。君は今、壁の前で悩んでいるのかな。ごめんね? でも、この選択肢が君にとって一番だと思うから。ボクは将来、君の敵にしかなれない。だから、君を不幸にするものの一つを道連れに、居なくなろうと思うんだ」
「……ナイ?」
 恐ろしい考えが、総一郎の頭によぎった。『壁』。総一郎が一度弾かれた障壁の事なのではないか。だがそれでは、彼女が総一郎の空間魔術を知らないという疑惑すら湧いてくる。『白い世界』。『道連れ』。障壁の中を、無に帰すつもりか? それでは、ナイ自身も死んでしまうではないか。
 ねぇ、と彼女は、再び総一郎を呼ぶ。
「君は結局信じてくれなかったけれど、それでもね、ボクは君が大好きなんだ。仮にも、邪神であるボクがだよ? それが、人間なんて言う矮小な種族の男の子を本気で好きになって、その末に死を選んじゃうなんて」
 その次の言葉を、総一郎はきっと知っていた。
「――結構、破滅的じゃない?」
 息を呑んだ。声の限りを尽くして、ちっぽけな少年は言い放つ。
「黙れ! 君は僕の命を懸けてでも救ってやる!」
 総一郎は木魔法の応用で各血液型の血を作り出した。血が異なる血液型を拒むのは、凝固してしまうからだ。だから、まずはナイの血液型を知らなければならない。
 無我夢中だった。何をしたのかも、ろくに覚えていなかった。ただ、一つだけ覚えていることがある。それは、彼女を救うために、恐ろしい決断をしたことだった。
 その内容は、覚えていない。
 気が付いたころ、総一郎はナイの血だまりの中で眠っていたようだった。覚醒して、焦りと共にナイを見ると、衰弱こそすれ息は整っていた。思わず、抱きしめたい衝動にさえ駆られた。だが、総一郎にはまだ仕事が残っている。その頭を一度撫でて、社を出た。
 闇色の空を見上げると、二匹の悪魔が飛んでいた。一匹は細長く、一匹は人間と同じような体躯だ。十中八九、このどちらかがナイを傷つけた。あの乱暴な傷痕は、風魔法によるものに違いないのだ。
 総一郎の目は、鋭い。魔力の残量も、少しは寝ることが出来たから心配はなかった。
 ――殺すつもりはない。だが、相応の目には会ってもらう。
 風と共に、飛び上がる。
 火魔法で、巨大な炎弾を飛ばした。二体ともぶつかり、彼等は攻撃対象を総一郎に定める。天狗が、襲い来た。その眼に正気の色は無い。風魔法での攻防は、恐らく押し負ける。だから、総一郎はまず光魔法で目暗ましをした。
 天狗は、膨大な光を目に浴びて動きを止めた。総一郎は風魔法で彼の背後にまわり、重力魔法で自重を極端に重くして、生物魔術により天狗の足を掴み続けるだけの握力を手に入れた。風魔法を解き、長鼻の足を握る。隙あらば握り潰そうとさえ考える。
 天狗は飛び上がろうとしたが、総一郎が重石になって結局落ち始めた。風魔法での攻撃や彼の種族魔法が飛び交うが、その方向は出鱈目だ。総一郎は、更に重力魔法に魔力をつぎ込む。地面が近づき、思い切り天狗を引っ張った。重力魔法を解いて、物理魔術で横に逃げる。天狗は地面に激突して、動きを止めた。
 ダメ押しに炎魔術をしこたまぶつけて、本命の龍の眼前で宙に制止した。天狗は、多分死んでいないだろう。仮にも大妖怪だ。問題は、この竜神である。睨み合う。彼の眼は、爛々と輝いている。正気なのかどうかは、分からない。しかし寝たきりの時よりは活力に満ちていた。
「……何故、貴方はこの国に来たのですか? 何故、貴方はこんなにも多くの人を殺したのですか? ――何故、貴方はナイに手を掛けた」
 天狗は明らかに正気を失っていた。それに対して、ナイの傷は非常に的確だった。致命傷に至る場所を、過大な力で抉っていた。先ほどの天狗に出来るとは思えなかった。
 竜神は、真っ直ぐに総一郎を見つめたまま、口を開く。
『……お前、総一郎とか言ったか』
 女の声だ、と総一郎は感じた。それが、脳に直接響いている。首肯すると、彼――彼女は、目を伏せた。
『この世はな、もはや神の物ではない。何もかも人間の物だ。妾も、その一つよ。抗おうにも、抗えぬ』
「誰かが、貴方を操ったと?」
『妾は、もう疲れた。力に抗うのも、生きるのも。天狗には、詫びておいておくれ。妾は、先に逝くとな。……千年、いや、もっとか。十分生きた。満足なのだ』
「……」
 ここでもだ、と少年は思う。ここ最近、いつも総一郎の周りで見えない力が動いている。だが、その根源が分からないのだ。魔法で調べても、何の証拠も出てこない。――竜神と言う強大な神をも操る異能。そんなものが、本当にあるのか?
「……貴方も、正気ではないようだ。天狗様と同じに叩きのめして、そこから正気を取り戻させます」
『ふはは。天狗はともかく、妾を叩きのめすのは無理と言う物だ。殺す気で来い。でなければ、敵う物も敵わぬ』
「大丈夫ですよ。殺す気でやりましたが、天狗様は多分生きています」
『成程。確かに天狗が言うとおり、言葉はなっていても口が減らぬ』
 空中を泳ぐ巨大なウミヘビ。しなやかに竜神は空を滑り、総一郎に食らいついた。総一郎は慌てずに、時魔法でその動きを遅らせる。その間に化学魔術製の爆弾を作り上げ、彼女の口に放り投げてその攻撃範囲から脱出した。
 歯が噛み合わさる音。竜神は瞬間止まり、違和感に首を傾げた瞬間、その喉は爆発した。血を吐く。そこに、氷魔法で練成した巨大な氷塊をぶち当てる。
 竜神は、火を吐いて抵抗した。一息の間に氷塊は、熱で水蒸気となって霧散する。その水蒸気を操って、総一郎は数秒身を守った。数秒あれば新しい魔法を練れる。
 数種の攻撃を順繰りに使って翻弄し、隙を見て肉薄にした。竜神の鉤爪が来て、紙一重に交わす。だが、返しが来ることは予想の外だった。肩を割かれる。無我夢中で、常備している木刀を抜いた。その手を切り飛ばす。
「早く力尽きてください! 治療はちゃんとしますから!」
『ふはははは! 小僧! 妾に勝てると思っているのか!?』
 もはや彼女は、体面上の正気すら保っていないようだった。総一郎は木刀で鱗を貫き、その腹を裂く。一人と一柱は、もみ合って墜落して行った。血が、風に煽られ飛び散っていく。
 人間と亜人は、体のつくりがそもそも違う。総一郎が一方的に攻撃しているようで、竜神の軽い一撃は総一郎にとって致死性すらある。生物魔術を展開させる余裕は無かった。木刀を手放すという考えは必死の総一郎には思い浮かばず、即死を免れる事のみに思考を巡らせていた。
 竜神ごと地面に激突する瞬間、総一郎は彼女の上で高く跳躍した。
 即死レベルのショックは、ぎりぎりその域から逃れたらしかった。総一郎は結局大破させられた足を抱えて呻きながら、ゆっくりと意識して呼吸する。冷静になるまで、長い。
「……ああ、そうだ。生物魔術……」
 脳内での無詠唱で済ませる余裕すらなく、少年はぶつぶつと久しぶりに呪文を口にした。やはり、まだ本調子ではないらしい。本当に必死になると、魔法が頭からすっぽ抜けるのだ。それでも、木刀だけは手放さない。
 荒い息ながら立ち上がれるようになった時、すでに竜神は息絶えていた。一度手を合わせてから、天狗の元へ行く。少し離れた場所で、彼は呻いていた。見れば背骨の一部が砕けているらしく、動けないのだと知った。
 土魔法で強固に拘束してから、素早くその大怪我を治療した。だが、このままで放置は出来ない。声をいくつかかけても、効果が出る兆候は無かった。
 総一郎はため息を吐く。息が上がっているから、嘆息とは違う雰囲気になった。事実、怒りもあるのだろう。目を強く瞑り、吹っ切れたようにずんずんと歩み寄って、天狗のマウントポジションを取る。
「……天狗様。今から、百発殴ります。その間に、正気を取り戻してください」
 天狗だとしても、本気の拳を百発も食らえば死ぬだろう。その間に我に返らなければ、もう、手遅れなのだ。
 一発、二発と殴り始めた。正気の色は、十発を超えても戻らなかった。十六発目に天狗の鼻が折れ、三十発を殴る頃には総一郎の拳の皮が剥がれ始めた。五十発で、殴るのさえままならなくなった。それでも苦痛をかみ殺しながら、拳を振るう。天狗は血だらけだが、息があった。
 七十発で、彼の声色が変わった。呻き声が、柔らかくなった。総一郎は構わず殴り続ける。それから三発後に天狗の目に光が戻り、次の一発を経てはっきりと聞き取れる言葉を発した。
「や、止めろ! 何をする、総一郎!」
「……やっと、正気に戻られましたか」
 拘束を取り、総一郎は天狗の上から退いた。生物魔術で、丁寧に治療して差し上げる。自分の事は後回しだ。それでも彼は痛みに頭を押さえ、「一体何があったのだ……」と尋ねてくる。
「貴方と竜神様が正気を失って、まずナイを死の寸前に追いやり、その次に多くの騎士の命を奪いました」
「そんな! まさか……」
 そうは言ったものの、天狗には心当たりがあるようだった。立ち上がり、彼は一度翼をもって高く飛んだ。そして、下りてくる。その顔は、赤いのにも拘らず蒼白だ。
「……竜神様は」
「すみません。加減が効かず、殺してしまいました」
「……そうか」
 天狗は、やるせなさに二筋の涙を流した。共に社に戻ると、ナイは呆然と自らの血だまりを見下ろしていた。
 気配に気づいたらしく、こちらを見た。彼女は、荒れた髪の毛を直そうともせず、こちらに気の抜けた声を投げかける。
「……総一郎君。ボクを、治療したの?」
「うん。そうだよ」
 少年の声に、ナイの表情は歪んだ。悲しみとも、安堵ともつかない、虚無的な変化。総一郎は無言でそれに近づき、彼女の手を引いた。力なく倒れてきた小さな体躯を、総一郎は抱きしめる。ナイは訳が分からないというような顔で、こちらを見上げた。
 総一郎はナイを守りながら、天狗に顔を向ける。
「天狗様。もう、この国に用は無いでしょう。今すぐ日本へとお帰り下さい。この地は、亜人にとって呪われた地だ」
「……それは違う。この国は、『人間にとって明らかに亜人と分かる者』にとって、呪われた地なのだ。調べれば、段々と分かって来る。儂が得た結論は、それだ」
 天狗の声は、震えていた。嗚咽を必死に堪えているのだ、と思った。「この社も、壊してしまわねばな」と彼は言う。「そうですね」と、相槌を打った。
 三人で外へ出て、風魔法で原形を留めなくした。天狗は、総一郎に「これからどうする」と尋ねてくる。少年は、疲れた笑みを浮かべて、彼にこう返した。
「もともとは、僕は龍を殺しにこの地へ赴いたんです。だから、他の龍も殺しに行きます」
「そうか。……分かった」
「もっとも、天狗様が僕を殺せば別です」
「いいや。……竜神様が狂うのは、半ば目に見えていたことだ。それに、総一郎。お前は今日の内に、いつの間にか風と火の加護が凄まじく上昇している。それが、答えなのだ」
「……。そうですか」
 ナイは、何も言わずに立っていた。総一郎がその手を掴んで離さないから、彼女も抵抗しきれずに隣にいる。その反対の手を、総一郎は強く握った。竜神様の遺産を、無駄にはしない。
 天狗は、何処までも暗い闇の中、黒い翼を広げた。こちらに目を向け、巾着袋を投げてくる。中を見れば、札束がいくつも入っていた。
「餞別だ。受け取ってくれ。……済まなかったな。何もかも、迷惑をかけっぱなしだった。謝っても謝り切れないと思う。言葉もない」
「いいえ。僕たちの中に本当に悪かった人は居ないと思います。それに、僕だって竜神様を殺してしまった」
「――そうか。では、息災でな、総一郎」
「はい。天狗様も、お元気で」
 翼をはためかせる音が、総一郎の聴覚を占めた。それ程、嵐の過ぎた夜は静かだった。

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