武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

6話 1/0≒∞ クルーシュチャ方程式の真偽 (6)

 総一郎は、怪人物と遭遇した日から真面目に騎士活動に勤しむようになった。今までは面倒を避けて、ほとんどの時間を読書したり、ナイと遊んでいたりで潰していた。それではいけない、と感じたのだ。騎士たちの交友を広げ、あの、顔すらうろ覚えの彼を見つけねばと考えた。
 そうしていると、少しずつ見える事も多くなっていった。騎士たちに好奇心旺盛に尋ねるものだから、気をよくしてみんながドラゴンや森の事を教えてくれるようになった。
 たとえば、ドラゴンの好物が森の奥に数少なく生えている花なんてことは、初耳だった。
「それ、本当なんですか?」
「ああ。君は若いのにしっかりしているから、教えても大丈夫だと思った。この話は極力漏らさないで御くれよ? 花を取りつくしてしまえば手の打ちようがないから」
「え? その花を他の場所から取り寄せることは出来ないんですか?」
「その花は、亜人なんだよね。厳密に言うと、マンドラゴラと数種の花の交配種なのさ。だから、人工的に作り出すという事が出来ない。その上気安く引き抜けば死の鳴き声が響くから、未熟な騎士には教えたくないんだよね」
「その花を、今から取りに行くんですね?」
「ああ。一つでも相当匂いが強いから、一つだけ取ってそれを大量の花束に隠す。ドラゴンはそれに勘違いを起こして食らいつく。今までかなり非効率な方法でドラゴンを発見しようとしていたが、今回は勝算も高い」
 二人の騎士が交互に喋るのを聞いて、総一郎は騎士にも良い人は居るじゃないかと思った。だが、そんな二人でも総一郎の出自を明かせば豹変するのかもしれない。げに憎むべきはこの国の教育なり。という訳だ。
 薄い関係性だが、死なせたくはないと思った。それが叶えばいい。叶わなければ、少し悲しい。
 ドラゴンは、日々少しずつ狂暴化し、強くなる。
 竜神様との戦いは、まさに死闘と言ってよかった。油断して居なくとも、総一郎は死にかけた。父なら違っただろう。己の出来る事を十全に理解し、使い分ける。総一郎には、まだ難しい。最近なのだ。魔法を意識しないまま、手足の様に使えるようになったのは。
 ナイが、総一郎におぶさりながら欠伸をした。彼女は今姿を消している。彼女の容姿はどう考えてもドラゴンの前に立って良い年齢ではないし、彼女から独自の異能を取り除けば、頭がよく小器用な少女に過ぎないからだ。父から刀を奪う時点で十分だとは思うが。
『総一郎君。暇だからキスしよっか』
『しょっちゅうしてると軽くなるよ?』
 遠まわしなお預けを食らって、ナイは『むぅぅぅうう!』とむくれた。互いに声には出さない。精神魔法で、総一郎がリンクさせているのだ。
 そんな彼女を宥めながら、森の木々について思考する。今日は晴れ日で、広葉樹の多い森の中では木漏れ日が気持ち良かった。だが、本来この国では針葉樹以外は生育できない。それはひとえに、寒いからだ。
 この広葉樹林の一本一本は、全て亜人である。今誰かが気まぐれに切り倒そうものなら、毒ガスが一斉に噴出され森の肥やしになるのだろう。その恐怖にとらわれ、森に入れなくなった者も多かった。
 総一郎も、毒ガスは危うい。毒魔法と言うのは使い所が少なく、解毒しようにも知識が足りないのだ。更にこの亜人たちは新種で、何を出しているのか分かった物ではない。
 ナイの、総一郎にしがみ付く手が強くなった。それだけで心強くなるのだから、少年は単純だ。
 この先をまっすぐに進めば、件の花があると彼らは言った。総一郎は元気よく頷く。すると何故だかその班の全員から頭を撫でられた。訝しんでナイにどういう事かを聞くと、彼女にまで撫でられるものだから、総一郎はむっつりと閉口する。
 一番乗りを促され、従った。見れば、木が光を隠さないために出来た花畑がそこに在った。幻想的なまでに美しい花である。だが、下にはマンドラゴラの亜種が眠っているという話だ。総一郎は音魔法で花の周囲を消音し、騎士たちが来る前にさっと抜いてしまった。
 音もなく、マンドラゴラは絶叫を上げた。聞けば死に至ったのだろう。しかし、音が失せれば無力なものだ。総一郎はその無為に肩を竦める。
「どうだい? 綺麗な花だろう。でも、用心してくれよ? 迂闊に摘めば、死んでしまうかもしれないからね」
 まさか総一郎が花を既に積んでいるなんて思っていない騎士たちは、まるで我が子に接するような親しさで、そのように言ってきた。総一郎は困ったような声で返す。
「……あの。何かこれ、もう抜けてるのがあったんですが……」
 言いながら振り返り、花を見せた。可憐な花弁と、ごく小さな人間を模した根。騎士たちは、あっと声を漏らした。
「だ、大丈夫だったかい?」
「は、はい。最初から抜けたのが落ちてあったので、叫び声を聞いたという事は無いです」
「それは良かった。しかし、こんな事があるのだろうか。ドラゴンが、食事を途中で止めたとか……」
「何があったんだろうねぇ。まぁ、それはいいじゃないか。ともあれ、ブシガイト君。お手柄だよ」
 皆撫でるのが好きだな、と思いつつ、甘んじて撫でられた。最後には案の定、「よしよし」とナイに撫でられる。何でこんなにも撫でるのが好きなのだろうと考えて、騎士たちを見た。全員四十代前半という位で、総一郎と同い年の息子が居てもおかしくはない。なるほど、と納得した。会えない分、しばらく彼らの息子で居よう。
 その花は責任を持って総一郎が保持し、森を出て指揮官に渡した。指揮官は年老いていて、これまた総一郎を猫かわいがりする。こっちは孫扱いなんだろうなと予想を付けつつ、素直に振る舞った。元々そういう性分だから、演技をしているという感覚もない。
 花束が届くのは、明後日という事だった。それまで、休んでいるようにとのお達しだ。多分これでここのドラゴンを討伐できると、老若男女、騎士たちは息巻いていた。
「総一郎君、皆に可愛がられてたね」
「君含めてね」
 テントの中、ナイはそう言ってからかって来る。しかし、大して恥ずかしい事でもない。男の自分が騎士たちのアイドルと言うのは何だかむず痒い話だが、先知れぬ身の人々の癒しになるのを恥じだと思うのは、侮辱以外の何物でもないだろう。
 とはいえ、含みがある訳でもなく、ナイは総一郎にきゅっと抱き付いてむくれた顔で言った。
「でも、総一郎君を一番可愛がるのはボクなんだからね! そこの所は忘れないように!」
「はいはい」
 こんな小さな体で何を言っとるのかとも思わなくはなかったが、よくよく考えればナイは総一郎より九歳年上である。だがちょっと待てよ? そもそも総一郎には前世があるから、単純計算なら十六歳ほど総一郎の方が年上という事になる。
「……よしよし」
 試しに撫でてみると、ふにゃっと少年に身を預けてきた。幸せな時間だった。
 少しして、総一郎は食事の為にテントを出た。あんまり美味しくないなと複雑な表情をしていると、同じ班の騎士たちが総一郎を見つけて寄って来た。何だか不思議な気分にさせられた。今まで、こんな事はそうは無かった。
 雑談をしていると、いつの間にか彼らの身の上話を聞くことになった。全員が貴族という事ではなく、しかしその間には差別的な所はない。それぞれがそれぞれの人生を辿っているのだと教えられた。幸せな家庭を既に築いていて、帰らない訳にはいかないと語った者、過ちを犯して、帰るところなどないのだと笑った者。様々だったが、みな仲が良かった。
 総一郎の見解で言えば、生き汚い人間は強い。総一郎は自分の知る中でも一等生き汚く、だからこそ今の今まで生き長らえていると言っていい。
 是非とも、生き延びて欲しい物だ。しかし、この中で生き延びる人は少数だろう。騎士は、最終的には他者の為に死を選ぶ生き物で、彼等も例には漏れない。前線に立つ限り、彼らが生きたまま帰れるという事はあるまい。
 愉快に夕食を済ませ、明日は最後の休みだと、大人は全員大酒をかっ食らっていた。総一郎は、それを横目に食堂を出た。
「誰も、死ななきゃいいのにな」
「そうだね、総一郎君。そうすれば、君の悲しむ顔を見ずに済むもん」
「それだけ?」
「仕方がないよ。ボクは彼等のなにもかもが見えてる。何をしたって予定調和で、つまらないからね。こればっかりは、どうしようもない」
「……そっか」
 総一郎は、咎めようとは思わない。彼自身も好奇心の犬だからだ。内容の意図も、文体も、一字一句覚えてしまった本があったとしたら、少年は決してその本を読まないだろう。
 そういう意味では、同情しか感じない。総一郎がナイだとしたら、興味を満たす存在が数人しかいないなんて耐えられないことだ。少年は、彼女の手を繋ぐ。ナイはその行動に一瞬安堵を見せ、その意識の隙間を突いて総一郎は唇を合わせた。
 ナイの驚いた顔は可愛い。出会ったばかりの頃に見せられた表情が不敵な物ばかりだったから、そのギャップが堪らない。
 いつの日か、ナイと対決する。ナイを殺さず、その中に居る無貌の神だけを追放する。その為には、強くならねばならない。死んではならない。
 強くなる。それは、経験を積むという事だ。今の所の当てとしては、騎士の中に潜む者の正体を暴きたてる事がそれになる。
「総一郎君って、なんだか不思議だよね。話し言葉の割に、行動が肉食系っていうか……」
「好きな小説のジャンルが剣豪小説だからね」
「それが肉食系になるの?」
「剣豪小説って、大抵主人公が平気で女性を犯すんだけど」
「……えっ」
「いや別に、僕はしないよ?」
 変な誤解が生まれても嫌なので、冷静な顔で否定して置いた。なんだか複雑な面持ちで、ナイはどもり気味に頷く。ちょっとよく分からない反応だった。
 総一郎は、体重を掛けずにナイにもたれ掛かった。首を抱きしめ、頬ずりをする。成長期に入った総一郎だから、今までに比べると良い感じの身長差だ。ナイは頬を赤らめ、嬉しい様な、困った様なという表情をした。その時、遠くでこちらを見ている人間に気付いて、ちょっと恥ずかしくなった。
 だが、微かな違和感が総一郎の中心で、蒸気の様に浮き出した。ナイを開放し、そちらに目を向ける。光魔法で細工し、その顔を捉えようとする。
 目が、合った。その目を、総一郎は覚えていた。
 駆けた。同時に、奴は逃げ出した。速い。風魔法すら使って追いすがる。奴は森の中に入った。総一郎も後を追う。
「待ってよ、総一郎君! どうしたの、一体?」
 ナイが、総一郎の後を付いて来た。恐らく、何かしらの術を行使しているのだろう。驚くにも値しない。
「騎士の中に居る異分子の一人が、この先に居るんだ。今逃げてる。捕まえないと」
 用心を重ね索敵を行い、総一郎はさらに物理魔術による推進力を足した。自重を軽くする。このままでは木にぶつかっただけで大怪我しかねないが、精神、時間魔法を併用すれば、間違っても激突はしない。
 だが、それでも奴は捕まらなかった。どれだけの速さだというのだ。索敵では、引っかかっているのに。
 その時、横から襲い来るものがあった。
 ドラゴンは、総一郎を横に突き飛ばした。寸前で防御をしたが、足りなかった。吹き飛び、地面を転がる。何度も跳ねて、腑臓が掻き混ぜられたような不快感が少年をガツンと殴りつけた。
 魔法による防御を、次々に足していってもこれだ。総一郎は、立ち上がれない。赤子のように丸まって、滝のように流れ出す冷や汗も拭えず、荒く息をするしかなかった。
 ドラゴンは、追いかけようとしなかった。総一郎が息絶えたと見て、そのまま通り過ぎて行った。総一郎は、痛みに声も出せない。弱って、ナイの名を呼んだ。
「大丈夫だよ、総一郎君。ボクは、ここにいるから」
 視線を向けるのも億劫だったのを見透かしたのか、彼女はわざわざ総一郎の視界に入り、優しく微笑んだ。総一郎は安堵し、そのまま目蓋を落としてしまう。そのギリギリに、生物魔術で代謝を上げた。起きるころには、全快しているだろうという算段だった。

 夢を見た。
 酷く、生々しい夢だった。
 夢か現かも分からない記憶。セヴァン谷を下りていき、迷宮を探索する。
 その途中で遭遇した、あの神々しいまでに絶対的な恐怖を纏う、青白く足が何本も生えた怪物。亜人とも違う。見ただけでそのものの正気を奪うほどの畏怖。
 それは動けなくなった総一郎に近づき、突き飛ばし、押しつぶした。
 死んだと、そう思った。

 総一郎は絶叫を上げた。闇がそこに在った。悶え、土を掻き毟りながら泣き叫んだ。躰が震えた。我に返るまでに、数十分を要した。我に返ってからナイが居ない事に気付いた。
「ナイ……? ナイ……!」
 自信なく、総一郎は宙を掻いた。闇は深い。寝ている間に、夜になったらしい。総一郎は光魔法で明かりを灯した。浅い洞窟に、少年は居た。ナイが運んでくれたのか。だが、それでは何故彼女が居ない。
 激しい不安を感じていると、夜の森の中からこちらへ歩いてくる者があった。小柄で、華奢な少女――ナイだ。総一郎は一瞬安堵に表情を緩ませるが、様子がおかしい事に気が付いた。いつものそれではない。まるで、出会った頃や、再会したばかりの時の様な――
 彼女は、総一郎から十歩ほど離れた場所に立って、彼にとあるものを投げ出した。黒く丸いそれは、少年の足元に転がり、その正体を明らかにした。
 それは、総一郎が捕まえようと必死になった騎士の、頭だった。
 総一郎は意味が分からず、彼女に疑問の視線を投げかけた。彼女は俯いたままで、前髪がその瞳を隠してしまっている。ただ、その口は暗い微笑が湛えられていた。針のむしろが如き沈黙だった。
 それが、しばらく続いた。
「……ねぇ、総一郎君。ボクの事、好き?」
 背筋の、寒くなるような声色だった。少年は口にすべき言葉を見つけられずに、ただ黙り込んでいる。再度、「ねぇ」とナイが言った。彼女は総一郎に忍び寄り、しな垂れかかった。
「ねぇ」
 目が合った。総一郎の視界が、消えた。
 脱力して、彼はすとんと地面に座り込んでしまった。何も見えず、明かりを無理やり消されたのかと疑った。しかし、違った。光魔法を行っても、何も変わらない。発動したという手応えだけが返ってきた。
 くすくすと、ナイは笑い出した。総一郎は震える。何でと、問おうとした。出来なかった。声が、出ない。封じられているのだ。盲目にされたのと同時に。
「ねぇ、総一郎君。ボクはさ、君に破滅させられるためにここに居る。でも、今の君じゃあ実力不足だ。だから、今はそれを育てる期間だと言っていい。それは、覚えているね?」
 ナイの声は、嘲笑を含んでいた。途中で、わざとらしく嘆息し、失望したような声で続ける。
「でもさ、正直期待外れだったよ。君のお父さんは言ったよね? ボクには良いように弄ばれないように、人間としての自分を保ちながらも、惑わされない孤独な自分を持てって。それで、今の君はどう? ボクの仮面に騙されて、良いように扱われて」
 彼女は、鼻で笑った。総一郎を軽んじる様に。価値を置く必要がないとでもいうように。
 総一郎は、恐らく、すがるような目つきをしていたろう。言葉を発しようとしたが、出来なかった。封じられている。泣き言すら、ナイは許さないらしかった。
 未練がましい考えが、頭を廻った。ナイは心を読んでいるのかいないのか、このように続ける。
「君が孤立して、その隣にボクが居て。話しかけながら、『簡単だな』って思ったよ。どんなに憎悪を向けた敵でさえ、誰よりも頻繁に顔を合わせて、優しく語りかけてあげるだけで、その相手に心を預けてしまう。もっとも、君はその点では少しだけしぶとかった。だから、竜神様の時のあのイベントを起こしたのさ。どうやってあの障壁を崩したのかだけは結局わからなかったけど、助けに来た時の君の滑稽さと言ったら、本当、なかったよ。まさか、あんなに簡単にボクに心を開いてしまうんだから」
 少年は動けないまま、止めてくれと願った。騙された自分が悪いのか。しかし、自分は騙されていてもいいと思わなかったか。――吹っ切れや、しなかったか。それが、どうしてこんなにも胸が苦しい。
 ナイの言葉は、正面から受けるには辛すぎた。だから、その意味を考えずにいる。それでも、その嘲笑う独特の声色は痛かった。
 頭痛がした。直感で、精神干渉が来たのだと分かった。ナイが、自分などどうでもいいと思っている何よりの証拠だ。掛けた時は用心に用心を重ねたから、防いだことは彼女にばれないようになっている。
 だが、総一郎は突如不可解に感じた。何故、精神干渉をしたのが『今』だったのか。もっと前でも良かったではないか。思考が動き出すと、ナイの言葉尻すら気になってくる。総一郎は、動けないままに息を呑んだ。そして、脳内で呪文を唱える。
 『空間魔法』
 総一郎は、あの虹色の球を耳の中に発動させた。それを、音魔法と混ぜる。単純な音魔法なら、間違いなく気付かれただろう。だが、空間魔法は音ではない。彼女が把握できない、可能性がある。
 そうして、特殊な音波のようなものを放った。空間魔法で鼓膜とは別の膜を作り、イルカのような方法で視界の代わりとした。どんな表情で、ナイが言の葉を紡いでいるのかという事だけでも知りたかった。
 返ってきたのは、号泣する一人の少女の影だった。
 彼女は大粒の涙を零しながら、嘲笑うような声を発していた。総一郎が盲目であるのをいいことに、少年から少し遠ざかって、蹲らんばかりに腰を折って泣いている。
 総一郎には、訳が分からなかった。嘲笑の言葉が、再び耳に入ってくる。
「本当に、君は馬鹿だね。でも、仕方ない事だよ。呉越同舟と言うだろう? 人間は、そういう風に出来ているのさ。弱いから、群れなければならない。群れ易いように、本能に刻みつけられているんだ。だから、君は悪くないんだよ? 悪いのは、人間と言う愚かで矮小な種族さ。――ああ、全く」
 彼女の影は、自らの服を強く握った。多くの皺が寄り、ぐしゃぐしゃになる。
「人間は、浅ましいね」
 その言葉は一体誰に向けられているのかが、少年には分からなかった。自分への物であるのか。それとも、彼女が彼女自身に向ける嘲りの言葉なのか。
 でも、と彼女は言った。おかしくて堪らないという声音で、多分、苦しくて仕方がないという表情で。
「君はそれでも一番の有望株だ。ここで殺してしまうのは、少し惜しい。だから、テストをしてあげよう。合格すれば、君は生き残れる。……ほら、聞こえるでしょう? 耳を澄まして御覧よ。そう、総一郎君。君の目の前には、先ほど君を突き飛ばして瀕死にしたドラゴンが息巻いている。こいつを、殺してごらん? そうすれば、君は命を落とさずに済むよ」
 じゃあね、と明るい声で、ナイは去っていった。足音は軽かったが、彼女は歩いてではなく、騎士学園の転位陣に乗った時のような消え方をしていた。過剰な演出。その意図は一体何処ある?
 視界は、晴れなかった。だが総一郎は、目の前に居るだろう敵にはほとんどの関心を払わなかった。ただナイの事を考えている。最初から、分からなかった。今も同じだ。その本心が何処にあるのかを、彼女はいつだって隠している。
 総一郎が空間魔法によって捉えた影でさえ、ナイの偽りの可能性だってあった。嘲笑の性質を持つなら、そんな二段仕掛けがあってもおかしくない。
 猛烈な足音が、総一郎に向かい来た。抵抗するのも面倒で、素直に食らった。突撃され、口で強くくわえられ、放り出される。洞窟があったから、突撃によるダメージは無い。そもそも、痛みすら感じなかった。
 木に縦に叩き付けられ、人形の様に足をのばして座っている。足音が近づいてきた。防御しなければ、間違いなく総一郎を圧し潰す足音が。
 俯いて、「ナイ……」と呼んだ。声は、もう、出せるのか。頭の中で、彼女との思い出が渦を巻いている。数秒の猶予もない。それでも、総一郎はドラゴンを意識の外に置いている。
 ナイの言葉が去来した。――人間は、浅ましいね。その通りだ。人間ほど浅ましいものはない。だから、彼女は総一郎の元から去ったのだろう。総一郎がナイに心を預けすぎたからか。もしくはナイが総一郎に預けすぎたからか。判別は付かない。どちらも正しくなければよかった。そうでなければ、救えない。
「――ねぇ、ナイ」
 総一郎は、彼女の名を呼ぶ。圧迫する気配は、きっとドラゴンが眼前に迫っている為だろう。呪文を唱える時間もない。総一郎は、言った。
「僕が人間をやめれば、君は戻ってきてくれるのかな?」
 木刀を、執った。
 ドラゴンにも、桃の木の木刀は有効だった。切り付け、怯ませ、その目を貫く。ドラゴンは、呆気なく横倒しになった。生物魔術で目を治療した総一郎は荒い息を吐きながら、奴はもう死んだとここから出ていこうとする。
 だが、猪の様に突進しか能の無い愚図は、醜くも未だ息があるようだった。総一郎は、何故かはらわたが煮えくり返るような思いをした。顔を悪鬼のように歪ませ、毒づき、怒鳴りつける。
「……何、生きてんだよ。さっさと死ねよ!」
 腹を捌き、内臓を燃やした。ドラゴンは悶え、痙攣を繰り返し、息絶えた。クソ、と何度も繰り返しながら、総一郎は歩いていく。

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