武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

1話 白羽の居ない日々Ⅰ

 海の夢を、よく見るようになった。
 青い景色の中、漂っている。周囲には、小魚の群れ、揺れる海藻、水の揺蕩いに光が乱反射して、帯を作っている。
 遠くで、大型水生魔獣がうねっていた。しかし、近づいてこない。総一郎の脅威を、本能的に感じ取っているのだ。海は陸以上に危険で、だからこそ穏やかだった。
 目を、覚ます。見慣れた、赤錆びた天井。何となく揺れる感じ。総一郎は、起き上がった。ここ数か月、陸に上がった記憶がない。
「今日着くんだよねぇ……。何だか現実感がないな」
 起き上がり、部屋を出た。賓客扱いの証拠なのか、個室である。外はまだ夜と言った風情で、欠けた白っぽい月が海の端に見えていた。そのまま甲板に出て、息を吸う。木刀を構え、そのまま、目を瞑る。
 船の上では、総一郎は木刀を振らない。ゆったりと、揺れに身を任せていた。途中で、何やら獰猛なものが向かってくる。それは、きっと修羅だ。奴は不定形で、総一郎を侵食しようと迫りくる。
 それをいなすのは、あまりに容易い。何もしなければよいのだ。そうすれば、修羅は総一郎に纏わりついて、そのままどこかへ消えてしまう。
 今日は、そうと分かっていても忌避感を覚える様なうすら寒さがあった。何かを予感して、愉快そうに蠢いている。瞼を、強く落とす。じっと、耐えた。
 夜が明け、人の声が聞こえ始めた。修羅は、もう消えている。総一郎は目を開けた。船員の中でも最も総一郎に年の近い少年が、苦笑いを浮かべてこちらを見つめている。
「何度見ても、住む世界違うよな、ソウ」
「何バカなこと言ってるのさ。君も俺も、住んでいるのはこの世界だよ」
 黒人の少年だった。背が高く、羨ましい。総一郎も船に乗り始めたここ一年半程度で大分伸びたが、やはり黄色人種は背が低いのだろうかと考えさせられることもある。
 漁を軽く手伝っていると、船長に肩を叩かれた。総一郎が乗せられたこの船は、体面上は漁船だ。様々な都合があったとだけ、聞かされた。当然だとも思った。総一郎は、きっと一人は人間を殺している。
「ソウ。もう少しで、お前とはお別れになる。何だか、寂しいよ。お前には危ない所をずいぶん助けてもらった。昨日のパーティも楽しかったな。オレは、お前の事を家族のように思っていた」
「俺もです、船長。でも、きっとまた会えます。旅と言うものは不思議なもので、予想もしていなかった場所で思わぬ相手と再会する物です」
「そうだな、……その通りだ。――野郎ども! 全速前進だ! 燃料なんか使い切っちまえ! ソウをUSAに届けるぞ!」
『応!』
 涙を誘う別れ、なのだろう。良くしてくれた人たちだった。だが仲良くなり過ぎないに越したことはないし、それ以上に総一郎は、そういう親愛の感情の持ち方が分からなくなっている節があった。人を愛せば人になる。人と修羅が確かな均衡を保っている今、人間に近づくことは均衡を不安定にする事と同義だ。
 一時間もしない内、港が見えてきた。思えば随分遠回りをしてきたものだ。しかし、無駄ではなかった。深海生物と総一郎が本気で争えば、遅かれ早かれこの船は沈んでいたに違いないのだ。時折寄った島も楽しかったのでよしとする。ハワイは人を幸せにする。
 港に、着いた。階段を下って、地面に足を下ろす。妙な感動があった。と共に強烈な陸酔いをした。ふらふらとよろける。船員が慌てて支えてくれる。嘔吐感。
「うっ、ううう、……ふぅう……」
『おぉぉぉおおおお……』
 耐えた事に対する謎の歓声が恥ずかしかった。
 そうこうしていると、近づいてくる者があった。その人物を見て、船員らは気味悪そうにすぐさま船へ戻って行ってしまう。「元気でやれよ!」「ちゃんと歯ぁ磨けよ!」「風呂入れよ!」と言い捨てて肩を強く叩いていくものだから、地味な痛みに辟易した。どうでもいいが、彼らは……いや、皆まで言うまい。
「ソウイチロウ・ブシガイト様ですね」
 濁ったような声色。そこに立っていたのは、カエルのような男だった。えらのようなものが、肩口から覗いている。船員がそそくさと去っていくのも無理からぬ話だ。そんな総一郎の心持を知ってか知らずか、「ククッ」と彼は笑う。
「見苦しい姿をさらしてしまい、誠に申し訳ありません。わたくし、このインスマウスにて救世主様を待つよう通達されたカバリストの一人にございます。この奇妙な姿は特殊な血筋によるもの。お気になさらないことを、お勧めします」
 総一郎は、しばしその姿を眺めて言った。
「深き者にもカバリストが居るとは思わなかったよ」
「いえいえ、むしろ深き者だからこそ、なのです。我々カバリストは祖国であるUKおよび、世界の繁栄の為に身を粉にする所存であります。そう、それこそこのような姿に身を落としてでも――」
「そう。ここ一年の謎が解けたよ。何故ショグゴスを下僕に使っているのかと思ってたけど、そういう事か」
 ナイの所為で、総一郎には『あちら側』についていっぱしの知識がある。専門と呼べるほどのものではないが、多少は通じている。
 しかし、これは普通知らなくていい知識だ。知るべきではない、とも言いかえられる。故に、ことさらその意味を考えようとも思わなかった。触れようと思わなければ、遠ざかれる世界である。興味もない。
 促され、車に乗った。運転席付近のメカメカしい造りを見て、アメリカの車は公共用と私用の二種類に分けられるという制度が出来たと聞いた事を思い出した。非常に簡単な言い方をすれば、無人タクシーの非常な増加だ。全自動運転の確立された今では、私用の物を使うより全然早かったりするらしい。
「やっぱり、アメリカは進んでるなぁ」
「そうでございますね。今日などは、殊にそう思わせられます。救世主様は、どの程度この国についての知識を?」
 車に、エンジンがかかる。前世の物と比べて、あまりに静かな律動。滑らかな動きで走り出した。その割に、速度は結構なものだ。
「全然だよ。日本の亜人受け入れでいろいろ手間取ってるっていうのは本で読んだけど、あとは日本に居た頃のちょっとした知識しかない」
「それでは、ここ一年前に起こったあの事件の事もですか」
「勿体付けずに話してほしいな。一年以上船の上だったのは知ってることでしょ? ……ああ、陸酔いが治らない」
「そうですか。ではお話しさせていただきますが――それにしても、随分と穏やかですね。通達されたアナグラムと異なっている為、気になってしまって。少々窺わせて頂いても?」
「君たちが思っている以上に、俺は穏健な人間だというだけだよ」
 もちろん、嘘だ。これは自我を保つための演技である。カバリストは当然総一郎の敵で、しかし殺すには色々と社会的、精神的に問題が生じる。だから避ける。その為に普段の口調から気を付ける。それだけだ。
 そんな総一郎のもくろみを知ってか知らずか、濁った声のカバリストは「そうでございますか」とだけ言った。その声質は聞きなれず、アナグラムを解こうにも難しい。
「なるほど、だから君が来たわけだ」
「何の事を仰っているのかは存じ上げませんが、では、僭越ながら語らせていただきましょう」
 耳障りな声質である。だが、内容を聞き取るのに苦労はしなかった。亜人による、秘密結社。その反乱。それによって、亜人の蔑視がさらに深まったと。
「その構成員のほとんどはこの地に元々いた亜人でありましたが、数名、日本国籍を持つものが混じっていたのが不運でした。反日発言も少々。その一方で経済に貢献もしていますから、親日家も多いです。会社を興して雇用が増えているのだとか。魔法技術の流入から起きる、コンドラチェフの波と言いましょうか」
「確かに技術革新だね、それは。という事は、それなりに好況なわけだ」
「経済だけで言うなら、その通りでございます。しかし、今まで差別対象であった亜人が渡ってくるわけですから、政治的観点から言えばそれなりに問題が。しかし分かりやすいデモなどはありませんし、要は、危ういが安定していると言った所でしょうか」
「言い得て妙だね、その表現は。アメリカ、日本人多いもんねぇ……」
「JVAという機関も発足されましたね。数名のアメリカ人が、日本人が興した会社に銃を乱射し、爆弾を投げつけた事件がきっかけだったかと。契約を横取りされたとかで」
「JVA……。JはJapaneseのJだって分かるけど、それ以外がよく分からないね。V……うーん」
「Japanese Vigilante Association(日本人自警協会)ですね。日本人の日本人による日本人の保護を目的とした組織を謳っていて、ネットではリンカーンのパクリだと叩かれています」
「かなり凶悪な組織じゃない? それ」
「恐れている人も居れば、頼もしいという人も居ます。日本人でなくとも、五十ドルするバッチを付けていれば保護対象と認識されるそうなので。逆に犯罪歴があると日本人でも保護してもらえないとか。親日家御用達のバッチだそうです。住民登録を済ませれば、救世主様にも届けられますよ」
 ふぅん、と生返事をする。随分と、イギリスとは異なったものだ。当然と言えば当然で、この環境にも慣れていかなくてはならないのかと考えると、ちょっと億劫にもなる。
「着きました。ここが、貴方様が住む街。先進と魔女と混沌の渦巻く場所、アーカムにございます」
 車が、都市部に差し掛かった。芝居がかっていながら何処か真実味のあるその言葉に、「嫌なことを言わないでよ……」と文句をつける。ナイの言葉が、蘇った。邪神さえ匙を投げる、深き謎の渦巻く特異点。
 小高いビルが乱立する中、一等目立つ位置に大きく、広い建物を見つける。
「アレは?」
「ミスカトニック大学にございます。予定では、救世主様にはその付属校に通っていただくという風になっておりますが、如何でしょう」
「構わないよ、俺は。そこまで拘りもないしね」
「では、御心のままに」
 駅前で、停車した。降りる前に、カバリストがドアを開ける。まるでタクシーだ。もっとも、この時代のそれとは違うらしいのだが。
 降りると、鍵を渡された。「これは?」と尋ねると、彼は答える。
「救世主様のために用意した、とある一室のカギでございます。好きに使っていただいて構いません。ですが、不要と判断しても処分なさらないことをお勧めします。いずれ、有用になることもありましょう」
「未来が分かったような言い方だね」
「比較的的中率の高い予測を、愚考し打ち立てるのみにございますれば。では、これにて私は戻らせていただきます。御機嫌よう、救世主様」
 深く頭を下げて、彼は車に戻っていった。そして、走り出す。すぐに、角を曲がって見えなくなる。
「さってと……。どうしようかな……」
 鍵には紙が結び付けられていて、それを開いて読んでみれば、その住所が事細かに書かれていた。総一郎はあらかじめ渡されていたタブレットを開き、地図を頼りに歩き始めた。
 アメリカ。イギリスに比べて、現代を強く意識させる風景である。日本の都市部にも似通っていた。アメリカらしいと言えば、らしいのかもしれない。人種のサラダボウルと言うべき国家的特色のため、先住民族を除いて特有の文化が存在しないこの国は、ただ合理化を突き進むしかないのだ。
 故に、目に入るのはビルの山。それなりに整備された道。車が車道を行きかっているのを見て、これらほぼすべてがコンピュータに制御されているという事実に実感が湧かなかった。自動車という乗り物は、総一郎にとってかなり縁遠い物なのだ。
 早足で混ざりあう雑踏の端を進む。都会だなぁ、などとしみじみ思ってしまう。前世の日本が、丁度こんな感じだった。無機質な環境である。だがその中で妙なものを見つけて、おや、となった。
 総一郎が発見したのは、とある少女である。ナイよりも背が低く、恐らく小学二・三年生ほどだろうか。買い物袋らしきものを持ち、仏頂面の癖に鼻歌を歌いながら歩いている。襟首に「JVA」と書かれたバッチがつけられていて、ああ、アレが。と納得させられた。黒い髪を見る限り、日本人なのだろう。
 というか、黒い髪よりも先に目に飛び込んで来るものを側頭部に装着していた。
 仮面である。おかめの、仮面だ。
「……すっごい似たものを見た事ある」
 横を通り過ぎていく少女。総一郎はそわそわとして、地図そっちのけで「あの」と声をかけた。振り向いた彼女に、しゃがんで目線を合わせる。
「すいません。ちょっとお尋ねしてもよろしいですか?」
「……うん? それは、私に対してか?」
 一応英語のまま尋ねると、あまりに可愛らしい声で、同時に酷く硬い口調のそれが返ってきた。何となく、連想。彼もこんな感じの英語使いそうだ。
「はい。えっと、その……」
 何と言っていいものか、声をかけてから言いあぐねてしまう。すると少女は怪訝そうな表情をして、襟元のバッジをつまんで強調。
「先に言っておくが、私は日本人だぞ。拉致などという愚かしい行為は止めておく方がいい。これは老婆心からの忠告だ。お前も若い。犯罪に手を染め、無残に殺されるなど嫌だろう」
「うわぁ……。すごい、電話越しに話した時よりパワーアップしてる」
「うん? どういう事だ?」
「えっと、だね……」
 もはやその素性は、疑うまでもないだろう。総一郎は、直球に行くことを決めた。軽く頭を下げて会釈する。
「どうも、直接会うのは初めてだね。般若清ちゃん。俺の名前は、武士垣外総一郎。数年前にちょこっと話したことがあるんだけど、覚えてるかな?」
 日本語で言うと、少女の目は理解の色に見開かれていった。「ああ!」と手を叩き、素直な納得を示す。
「そうか、お前、白、白……白何とかの弟だな!?」
「ちょっと待ちなさい。一緒に暮らしてるはずの白ねえの名前を忘れるとは何事か」
 裏付けも取れた事だしと、少々の怒りを交えて弱くその頬をつまんだ。清は嫌がって逃げようとしながら「ひょうはんは、ひょうはん」と言う。多分冗談と言いたいのだろう。解放する。
「まったく、反応が激しい奴だな総一郎。しかし、納得もした。中々迅速かつ的確なツッコミだったぞ。これなら白羽の弟に相応しい」
「うん? え、何それどういう事?」
 純粋に理解できなくて、総一郎は目をぱちくりさせる。清はそのかわいい声と硬い口調をもって、しみじみと言うのだ。
「あのぶっ飛んでる白羽があれだけ大切に思う相手だ。余程あのぶっ飛んでるボケに突っ込みを入れてきたことだろうと、前々から思っていたのだ」
 二回も繰り返されるほどぶっ飛んでいるらしかった。
「……白ねえ、君に一体何が」
「さぁ、お前が総一郎と分かれば、行動は一つだ。最近お兄ちゃんが『総一郎元気にしてるかなぁ』とうざくってな。何事かと思っていたが、アレは予兆だったという訳だ。ほら、行くぞ総一郎」
 小さな手で総一郎の左手を掴み、必死に引っ張ってくる清。口調に反してその動作は子供らしく、微笑ましさのために「はいはい」と肩を竦めて総一郎は追従した。
 清は早足で、ちょこちょこ歩く。総一郎はゆったりとした足取りで、のんびり進んでいた。やはりこの歳の差だと背の差も大きい。今彼女は七歳ほどだったかとしみじみする。
 ……七歳で老婆心なんて言葉を使うのか。もしかしたら総一郎よりも頭がいいのではなかろうか。と微妙に危惧しつつ、記憶違いかなと思いながら一つ尋ねる。
「そういえば、電話越しに君が付けている仮面が般若だって白ねえから聞いた記憶があるんだけど」
「アレは白羽の間違いだ。奴は般若とオカメの区別がつかんのだ」
「白ねえ……」
 何とも残念な姉である。だが、それ以上に再会が待ち遠しくもある。
 その時になって初めて、総一郎に実感がわき上がった。何年ぶりであろうか。白ねえと、直接会うのは。前は、数回電話で声を交わしただけだった。総一郎側の事情で、姿を見ることさえ叶わなかった。
 だが、今は違うのだ。そう思うと、酷い高揚感があった。と、同時に右手の疼きを感じた。血の気が引く。――ああ、そうだ。そういえば、そうではないか。
「お前の話は色々と聞かされている。私からも、直接聞きたいことがいっぱいあるのだ。しっかと話してもらおうではないか。……どうした?」
「ううん、ちょっと陸酔いが続いているだけ」
 嘘ではない。カバリストにもこの真意は見抜けない。清は言うまでもなく「そうか。それは済まなかったな、急かしてしまって……」としょんぼり項垂れる。仏頂面の瞳の端が、僅かに潤む。
「ううん、気にしなくて大丈夫だよ、清ちゃんの所為じゃない」
 これも、事実だ。総一郎は、改めて右腕の忌まわしさを意識した。修羅は、人を拒む。人に近づくのを拒み、反抗する。それが、総一郎を不安定にする。これは、人を愛せないという呪いのようなものだ。
 それっきり無言で、歩いていた。何となく計算して、もうすぐだろうかと予測する。ここいらで、沈んでしまった少女のテンションを上げることに決めた。言葉遣いに反して中々ナイーブな子らしい。
「そういえば、清ちゃん。俺って未来の事が当てられるっていう特技があるのは、白ねえから聞かされた?」
「え、ううん。そんなことが出来るのか、総一郎」
「うん。例えば、あと一分もしない内に般若家に着くでしょ?」
「おお、当たりだ。だが、少しインパクトに欠けるな」
「うん。だから、ここからが本当の予知。……耳を貸して、清ちゃん」
 素直に耳を寄せてくる少女に、総一郎は懐かしさを覚える。昔は内緒話がいやに楽しかったものだ。もっとも、三百年以上前の話だが。
「家に着いた時の、図書にぃの行動の予言。君のお兄ちゃんは、まず俺を見つけて驚き、飛びあがります」
「ふむふむ」
「その後食べ途中のバナナを落とし、踏みつけて転びます」
「なんと!」
「そして、頭を打って気絶してしまいます。しばらくすると置きますが、何と言う事でしょう。彼は記憶をなくしてしまったのです」
「えぇえええええ!?」
 行き成りリアクションが年相応に変わったものだから、総一郎は驚いて飛びのいてしまう。
「う、嘘だよな? お兄ちゃんが記憶なくしちゃうなんか、嘘だよな!? 嫌だぞ、そんな事! そんな事になったら、私嫌だぞ!」
「う、うん。そうだね……」
 ごほん、と咳払い。中々兄想いのいい子らしい。それはそうか、と思わなくもないのだ。図書は、あんなにしっかりしたいい兄貴だったのだから。
「それなら、避ける方法は一つだ。家に入ってお兄ちゃんを見つけたら、『大好き!』ってちゃんと伝えてごらん。そうすれば、きっと君の事を忘れないから」
「ほんとだな? ほんとにほんとだな?」
「うん、もちろんだよ」
 ただいまと、少女は叫んで扉を開けた。その後に、「お邪魔します」とそろりそろりと付いていく。
 リビングらしき扉をくぐると、丁度清が「お兄ちゃん大好き!」と図書に抱き着いているところだった。「え? おいおい、行き成りどうしたんだよ」と慌てつつも嬉しさが顔に滲んでいる青年を見つける。――ああ、懐かしい顔だ。
「折角だから、サプライズをと思ってね」
 肩を竦めて、声をかける。彼は、顔を上げた。そして、目を剥く。
「久しぶり、図書にぃ」
「お、お前、総一郎、なのか……?」
 清を抱き上げつつ、彼は総一郎によろよろと近づいてきた。手を上げると、しばし呆然として、不意に気づいたような笑み。パン、と叩かれる。小気味よい、ハイタッチだ。
「よく帰ってきた! 総一郎! お前が来てくれて、良かった。本当に、良かった」
 感極まったのか、図書はそのまま男泣き。清が心配そうに「どうしたんだ、お兄ちゃん。何で泣いてるんだ?」と聞く。ただ彼は、「嬉しいんだよ、本当に」とだけ言った。
 朗らかな感情。右腕が粟立つのを感じて、自制をしなければならないのが辛かった。それでも抑えきれず、総一郎は図書に白羽の居場所を尋ねる。
 だが、彼はただ、知らないとだけ言った。

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