玉虫色の依頼、少女達のストライド
5.陽の翳るリビング
美奈子さんを除いた全員がリビングに集まっている。運ばれていく少女の名を呼びながら玄関まで追いかけたというのが実際のところではあったが、屋根裏部屋の惨状から最も離れた場所に居たいという思いもあるのかもしれなかった。
中に入った途端崩れるように座り込んだのか、清貴くんが妙な体勢で身体を抱え込んでいる。隠された表情を見ることはできない。だが、見えなくても分かる気がした。窓辺に立って外を見据える蓮ちゃん、リビングの入口で座り込む多枝さん、事態を飲み込めていないゆうくんとまりもちゃんを抱き抱えてその頭を撫でる正哉くんも、一様に同じ表情をしているのだから。何かを重く抱えるような、それでいて何もかも抜け落ちてしまったような。満月ちゃんも同じだった。むしろそれ以上に何もなかった。呼吸をしているかどうかさえ確認しなければ分からないほどで、その異常に青白い頬はもしかすると、荒い呼吸に喘ぐ朝陽ちゃんの方が生命力を感じられたかもしれない。……何て皮肉な思想だろう。
未だ震える心臓を落ち着けたくてゆっくりと息を吸い込む。けれど鼻も口も血の臭いが充満しているような気がして、小さく噎せた。無意味だと理解していたけれど空いた手で顔を拭う。やはり何も変わらなかった。
「朝陽、死ぬの?」
飛び出したストレートな物言いに、意味を理解した者が息を飲む。きっと頭の中では服を真っ赤に染めて細い息をする姿が再生されているだろう。誰も答えられなかった。そして問うた蓮ちゃんを責めることもしなかった。何も言えなかった。
また深い沈黙が落ちる。窓からは存分に光が注ぐのに、室内は厚い雲に覆われるように徐々に暗さを増している気がした。
次に声を上げたのは清貴くんだった。上体を起こして困惑気味に疑問を落とす。出した声は少し枯れていた。
「あれは事故、なんだよな……?」
「たか兄、あれが違うって言うの?」
「俺に分かるかよ、でも」
自殺、とか。
言い終わらない内に音が弾けた。多枝さんが頬を叩いた音だった。
「まだ死んでない、あの子はまだ、死んでない!」
叫ぶ声の勢いとは裏腹に、多枝さんは静かに泣いていた。涙が次々と零れていることに気付いていないような、表情を作ることも忘れた顔で。
本当にそう信じているかと言えば恐らく願いに近いのだろう。だが訃報があるまでは生きて戻ってくることを信じたい、その思いは当然あるべきものだった。蓮ちゃんが平然と尋ねたのも、清貴くんが可能性を示唆したのも、僕と近いのかもしれない。失うことを恐れる感覚を鈍らせてしまったからなのかもしれない。ふたりの中には幼いままで残る何かがあるのだろう。それらも歳を重ねて補われていけばいい、僕が思う資格はないけれど。
より硬度を増した空気の中、正哉くんが近付いてくる。
「みぃちゃん、どこも痛くない? この辺りが苦しかったりしない?」
と、自身の左胸を掌で丸く撫でるようにして僕の腕の中に問い掛ける。しかし何の反応も返ってこないのを見ると、堪えるように眉を寄せて柔くその頭を撫でた。
「あっちゃんが頑張れるように力を送ってあげて、ね?」
声を押し殺すようにして言うと、無理やり微笑んで離れていった。
双子である満月ちゃんに委ねたくなったのだろうか。同じ顔で同じ背格好でも、同じ人ではないのに。
いずれは考えなくてはならない。その“いずれ”はすぐ傍まで来ているから。今だけは僕も、最初の確信を打ち消して、ひたすらに望みたいと思う。もう一度、お兄ちゃんと呼ぶ無邪気な声を。
**********
予想通り、答えが出たのはすぐだった。それから一時間も経たない間に。あまりに早いものだから、適切な処置が十分に行なわれたのかと思わず疑ってしまうほどに。
共に救急車に乗り込んだ美奈子さんからの電話はとても落ち着いたものだった。スピーカー機能を通して聞いた音声は混じり気もなく、雑音に掻き消されることもなかった。端的に「駄目だった」と告げただけの電話ではそう表現するのもおかしいのかもしれないが。
「……私の責任ね」
知里さんが言う。この中で誰もが失おうとしている思考する力をその人は失っていない。
誰と目を合わせるでもなく真っ直ぐ正面を見つめる横顔。静かで迷いのない声が空気に溶けることなく漂っていく。
「しっかりと、強く、生きましょう。先のことは生きている者が決めなくてはいけないのだから」
その言葉に、僕は抱き上げたままの満月ちゃんを抱え直した。もっと強くその鼓動を感じられるように。今生きていることを互いに確認し合うように。彼女の心音が静かに鳴っていた。
そうだ、僕達は生きてここに居る。あの屋根裏部屋で何があったのか、知らなくちゃいけない。どんな状況で幼い少女の胸をハサミが貫いたのか、あの子のために知らなくちゃいけない。これまでもそうしてきたように。
また最後に託された依頼の意味も。あれは確実に僕を信じた故に託されたものだ。そしてその言葉の通りになってしまった。あの子が想像して付与した意味とどれほど違うのかも今となっては分からない。だからこそ重要な何かがある予感がする。こういう時の予感は寒気がするほどよく当たってしまうから。
しかし、彼等にその覚悟はあるか? 淡い希望さえもあっさり打ち砕かれた彼女等に?
一瞬の迷いの内にも時は進んでしまう、悩んでいる暇は知里さんの前にはないようだ。
「しないといけないことが沢山あるわね」
「あの、屋根裏部屋の掃除は、いつしましょうか?」
「ひどいのかしら?」
不自由な足のため現場の状態を知らない知里さんに、正哉くんが頷き返す。あれだけの血溜まりだ、放っておけばおくほど床板に濃い染みを作ってしまうだろう。それでも今あの室内に入るのはあまりに酷なことだろうとも思った。
ここらではっきりと明言しておくべきかもしれない。
「ひとつ、いいですか?」
「ええ」
「知里さんは、この真実を知るべきだと思われますか?」
こんなことを言う理由に気付くのは知里さん以外には居ない。皆何が始まったのかと不思議そうに見守っている。
じっと僕の目を見つめてくる。しかしすぐに諦めたように軽く笑って、緩く首を振った。
「私の意思は関係なく、知らなければいけないと思うわ。全てうやむやにしていたらきっと、後悔してしまうもの」
強い人だ。僕もこうならなくては。
知里さんの決意があるならすることはひとつだ。
「でしたら警察に連絡し」
「駄目!」
突然、多枝さんが僕の提案を弾き飛ばす。怒りを垣間見る強張った顔に呆気に取られた。先程の何倍も感情を露わにしている。ヒステリックになっても仕方ない状況ではあるが、他にも理由がありそうだ。
「どうしてですか、警察に調べてもらえば何があったかすぐに分かるはずですよ?」
本気で言ってるの? そう聞かれて頷けば、仇を見るように睨まれた。
「あんたには分からないわ。施設の中を警察がどんな目で見るか、施設で育った人間にどんな言葉をかけるか。
市民を守る? 市民の味方? ……笑わせないでよ、一番の悪は警察じゃない!」
「多枝ちゃん、おやめなさい」
長老の声が重く響く。
「自分の言葉の影響をよく考えなさい。あなたを見て育つ子供達が居るんですよ」
おずおずと上げた視線で怯えるように見渡す多枝さん。全て自分に集められた瞳をどう見ただろう。何も返さず、リビングを出ていった。
過去に警察が介入する事態に遭遇した、ということだと思う。そうでなければ施設の中での警察の振る舞いに嫌悪したりしないだろう。ふと知里さんを見れば「あの子も施設育ちなの」と疑問に答えてくれた。
多枝さんも施設で育った、だからあそこまで過敏に反応したのだ。警察の心無い発言や視線を向けられた過去があるから、同じ思いをさせたくない。そうした心理が働いたのだろう。つまりそれだけ深く傷付いたということだ。それを無視してしまうのは多枝さんの心の傷を余計抉ってしまうだろう。軽んじていい筈がない。
それならどうする。とうに腹は決まっている。
「僕ならいいでしょうか」
「……歩さんが?」
「僕も素人だけど、経験だけはあるからね」
無駄に、とは勿論言わなかった。正哉くんは呆けていたけれど、知里さんには雪さんの件を話している。実際その一度きりではないものの、それ以上の説明も不要だろう。
ここで警察を呼ばないとしても病院ではそれなりの手続きが踏まれているだろう。だからこの行為は無意味かもしれない。しかしそれで少しでも気持ちが軽くいられるというのならその価値はゼロではないだろう。
「お願いしてもいいのかしら」
「できることはほんの一部です。これが絶対真実だと証明してみせることはきっと不可能でしょう。でもできる限りのことはしたいと思います。
探し物探偵としても、朝陽ちゃんの友達としても」
それで良ければ、と付け加えると、十分だわ、と返してくれた。
正哉くんが手伝いを申し出てくれたのも有難かった。つらい作業をさせることにはなるが、部屋のことや朝陽ちゃんのことをよく知った人が近くに居てくれると心強い。当然、ただの事故としてすぐに片付けられればその負担も少なくて済むが。
正直なところ、引っかかっていることがあって事故だと断定できないでいる。だから実を言えば警察に任せたくないとも思っていたのだ。できるなら僕が真実を見つけたかったから。可能性として浮かんだものが正しければ、それを彼女を少しも知らない人達に詮索されたくなかったから。
僕は清貴くんを呼んだ。捜索を始める前に彼の考えを聞いておきたかったからだ。戸惑う瞳がこちらを向く。
「どうしてさっき、自殺の可能性を考えたの?」
事故だと考えているようだったのに、自殺という言葉を出したのが気になっていた。多枝さんの暴挙で流されてしまったけれど。
自殺に至るような経緯を彼が個人的に知っていたとしたら。不良っぽいなりをしていても面倒見がよく"たか兄"と呼ばれて慕われている。他の人に打ち明けなかったことを彼には話していたということもあり得ると考えた。
期待を込めて見ていると、口元を動かしながら質問の意味を何度か逡巡して、それから首を捻った。
「可能性とか、そんなんじゃない。ただ確認したかっただけで……」
「事故だったと確認したかった?」
「だって、怖ぇじゃん。ハサミが刺さったんだろ? 偶然刺さったんなら気を付ければいいかって」
「それってたか兄、自分のことだけ考えてたってこと?」
蓮ちゃんが言って、清貴くんの身体が震える。考えないようにしていた図星を指された、そんな感じだった。
「分かんねぇんだよ! 目の前で見たのに、胸んとこ真っ赤になって、顔が真っ白くなって……見たのに、死んだって言われてもよく分かんねぇんだよ……頭が付いていかねぇんだ……」
頭を荒く掻き毟って、最後には怯える小さな子供のように身体を抱えた清貴くんの声が小さくなる。そして嗚咽に変わった。
誰も彼を責めることはできないだろう。こんなにも自分の考えに打ちのめされているのだから。悲しむことが正しいとか、泣かないのは非道だとか、そんなことはないと僕は思う。死に近付く少女の名を声を枯らしてまで呼び続けた彼のどこが人道的でないと言えるだろう。蓮ちゃんはそれ以上何も言わなかった。
このままにしておくのが良いとは思わなかったけれど、僕から言えることはないようにも思えた。心苦しいがすべきことを始めよう。
満月ちゃんは知里さんの隣の席に座ってもらった。まりもちゃんもゆうくんも一緒だ。寂しい思いもしないだろう。置かれるがままに着席したその姿は人形のようで、天使みたいに見えたあの華やかさは欠片もなかった。けれどずっと傍に居てあげることは難しい。寧ろ早く終わらせるのがこの子のためではないだろうか。すぐに戻ってくるよという意味を込めて、乱れのない三つ編みをそっと撫でた。
正哉くんと共にリビングを出る。まずは現場からかと考えたところで予想外の発言に足が止まった。
「部外者が入り込んだってことは絶対にないと思いますか?」
そう言った正哉くん自身もそれを信じているという訳ではなさそうだ。しかしそう考える気持ちも分からなくはなかった。
「隠れられれば不可能ではない、かな。まずはそういった痕跡がないか、外を探してみようか」
「……ありがとうございます」
自分から手伝いを申し出たとはいえ、喜んでしたいんじゃない。気丈な振る舞いが本心とは限らない。
知りたいけど知りたくない。知りたくないけど、知らない方が怖いから。だからありそうにもない予想を挙げて、可能性を潰していく。そうやって自ら、近付く真実から目を逸らせなくする。それが無駄な遠回りだと分かっていても。そうでもしなければ、受け入れることなどできないのだ。
僕も同じだった。この悲劇に悪人が居てほしかった。悲しみをぶつけられる、憎しみを喚き散らせる相手が居てくれたなら。
そんな常識から外れた考えさえも当たり前のように浮かんでしまう、それが死だ。――幼い命の消滅だ。
どの道を選んでも拭えない悲しみなら、せめて望む仕方で真実への一歩を進むべきだ。その手助けができるなら僕は何だってしよう。この家族のために力になりたいと願ったのだから。
誰もが後悔しないように、真実を探し出してみせよう。
中に入った途端崩れるように座り込んだのか、清貴くんが妙な体勢で身体を抱え込んでいる。隠された表情を見ることはできない。だが、見えなくても分かる気がした。窓辺に立って外を見据える蓮ちゃん、リビングの入口で座り込む多枝さん、事態を飲み込めていないゆうくんとまりもちゃんを抱き抱えてその頭を撫でる正哉くんも、一様に同じ表情をしているのだから。何かを重く抱えるような、それでいて何もかも抜け落ちてしまったような。満月ちゃんも同じだった。むしろそれ以上に何もなかった。呼吸をしているかどうかさえ確認しなければ分からないほどで、その異常に青白い頬はもしかすると、荒い呼吸に喘ぐ朝陽ちゃんの方が生命力を感じられたかもしれない。……何て皮肉な思想だろう。
未だ震える心臓を落ち着けたくてゆっくりと息を吸い込む。けれど鼻も口も血の臭いが充満しているような気がして、小さく噎せた。無意味だと理解していたけれど空いた手で顔を拭う。やはり何も変わらなかった。
「朝陽、死ぬの?」
飛び出したストレートな物言いに、意味を理解した者が息を飲む。きっと頭の中では服を真っ赤に染めて細い息をする姿が再生されているだろう。誰も答えられなかった。そして問うた蓮ちゃんを責めることもしなかった。何も言えなかった。
また深い沈黙が落ちる。窓からは存分に光が注ぐのに、室内は厚い雲に覆われるように徐々に暗さを増している気がした。
次に声を上げたのは清貴くんだった。上体を起こして困惑気味に疑問を落とす。出した声は少し枯れていた。
「あれは事故、なんだよな……?」
「たか兄、あれが違うって言うの?」
「俺に分かるかよ、でも」
自殺、とか。
言い終わらない内に音が弾けた。多枝さんが頬を叩いた音だった。
「まだ死んでない、あの子はまだ、死んでない!」
叫ぶ声の勢いとは裏腹に、多枝さんは静かに泣いていた。涙が次々と零れていることに気付いていないような、表情を作ることも忘れた顔で。
本当にそう信じているかと言えば恐らく願いに近いのだろう。だが訃報があるまでは生きて戻ってくることを信じたい、その思いは当然あるべきものだった。蓮ちゃんが平然と尋ねたのも、清貴くんが可能性を示唆したのも、僕と近いのかもしれない。失うことを恐れる感覚を鈍らせてしまったからなのかもしれない。ふたりの中には幼いままで残る何かがあるのだろう。それらも歳を重ねて補われていけばいい、僕が思う資格はないけれど。
より硬度を増した空気の中、正哉くんが近付いてくる。
「みぃちゃん、どこも痛くない? この辺りが苦しかったりしない?」
と、自身の左胸を掌で丸く撫でるようにして僕の腕の中に問い掛ける。しかし何の反応も返ってこないのを見ると、堪えるように眉を寄せて柔くその頭を撫でた。
「あっちゃんが頑張れるように力を送ってあげて、ね?」
声を押し殺すようにして言うと、無理やり微笑んで離れていった。
双子である満月ちゃんに委ねたくなったのだろうか。同じ顔で同じ背格好でも、同じ人ではないのに。
いずれは考えなくてはならない。その“いずれ”はすぐ傍まで来ているから。今だけは僕も、最初の確信を打ち消して、ひたすらに望みたいと思う。もう一度、お兄ちゃんと呼ぶ無邪気な声を。
**********
予想通り、答えが出たのはすぐだった。それから一時間も経たない間に。あまりに早いものだから、適切な処置が十分に行なわれたのかと思わず疑ってしまうほどに。
共に救急車に乗り込んだ美奈子さんからの電話はとても落ち着いたものだった。スピーカー機能を通して聞いた音声は混じり気もなく、雑音に掻き消されることもなかった。端的に「駄目だった」と告げただけの電話ではそう表現するのもおかしいのかもしれないが。
「……私の責任ね」
知里さんが言う。この中で誰もが失おうとしている思考する力をその人は失っていない。
誰と目を合わせるでもなく真っ直ぐ正面を見つめる横顔。静かで迷いのない声が空気に溶けることなく漂っていく。
「しっかりと、強く、生きましょう。先のことは生きている者が決めなくてはいけないのだから」
その言葉に、僕は抱き上げたままの満月ちゃんを抱え直した。もっと強くその鼓動を感じられるように。今生きていることを互いに確認し合うように。彼女の心音が静かに鳴っていた。
そうだ、僕達は生きてここに居る。あの屋根裏部屋で何があったのか、知らなくちゃいけない。どんな状況で幼い少女の胸をハサミが貫いたのか、あの子のために知らなくちゃいけない。これまでもそうしてきたように。
また最後に託された依頼の意味も。あれは確実に僕を信じた故に託されたものだ。そしてその言葉の通りになってしまった。あの子が想像して付与した意味とどれほど違うのかも今となっては分からない。だからこそ重要な何かがある予感がする。こういう時の予感は寒気がするほどよく当たってしまうから。
しかし、彼等にその覚悟はあるか? 淡い希望さえもあっさり打ち砕かれた彼女等に?
一瞬の迷いの内にも時は進んでしまう、悩んでいる暇は知里さんの前にはないようだ。
「しないといけないことが沢山あるわね」
「あの、屋根裏部屋の掃除は、いつしましょうか?」
「ひどいのかしら?」
不自由な足のため現場の状態を知らない知里さんに、正哉くんが頷き返す。あれだけの血溜まりだ、放っておけばおくほど床板に濃い染みを作ってしまうだろう。それでも今あの室内に入るのはあまりに酷なことだろうとも思った。
ここらではっきりと明言しておくべきかもしれない。
「ひとつ、いいですか?」
「ええ」
「知里さんは、この真実を知るべきだと思われますか?」
こんなことを言う理由に気付くのは知里さん以外には居ない。皆何が始まったのかと不思議そうに見守っている。
じっと僕の目を見つめてくる。しかしすぐに諦めたように軽く笑って、緩く首を振った。
「私の意思は関係なく、知らなければいけないと思うわ。全てうやむやにしていたらきっと、後悔してしまうもの」
強い人だ。僕もこうならなくては。
知里さんの決意があるならすることはひとつだ。
「でしたら警察に連絡し」
「駄目!」
突然、多枝さんが僕の提案を弾き飛ばす。怒りを垣間見る強張った顔に呆気に取られた。先程の何倍も感情を露わにしている。ヒステリックになっても仕方ない状況ではあるが、他にも理由がありそうだ。
「どうしてですか、警察に調べてもらえば何があったかすぐに分かるはずですよ?」
本気で言ってるの? そう聞かれて頷けば、仇を見るように睨まれた。
「あんたには分からないわ。施設の中を警察がどんな目で見るか、施設で育った人間にどんな言葉をかけるか。
市民を守る? 市民の味方? ……笑わせないでよ、一番の悪は警察じゃない!」
「多枝ちゃん、おやめなさい」
長老の声が重く響く。
「自分の言葉の影響をよく考えなさい。あなたを見て育つ子供達が居るんですよ」
おずおずと上げた視線で怯えるように見渡す多枝さん。全て自分に集められた瞳をどう見ただろう。何も返さず、リビングを出ていった。
過去に警察が介入する事態に遭遇した、ということだと思う。そうでなければ施設の中での警察の振る舞いに嫌悪したりしないだろう。ふと知里さんを見れば「あの子も施設育ちなの」と疑問に答えてくれた。
多枝さんも施設で育った、だからあそこまで過敏に反応したのだ。警察の心無い発言や視線を向けられた過去があるから、同じ思いをさせたくない。そうした心理が働いたのだろう。つまりそれだけ深く傷付いたということだ。それを無視してしまうのは多枝さんの心の傷を余計抉ってしまうだろう。軽んじていい筈がない。
それならどうする。とうに腹は決まっている。
「僕ならいいでしょうか」
「……歩さんが?」
「僕も素人だけど、経験だけはあるからね」
無駄に、とは勿論言わなかった。正哉くんは呆けていたけれど、知里さんには雪さんの件を話している。実際その一度きりではないものの、それ以上の説明も不要だろう。
ここで警察を呼ばないとしても病院ではそれなりの手続きが踏まれているだろう。だからこの行為は無意味かもしれない。しかしそれで少しでも気持ちが軽くいられるというのならその価値はゼロではないだろう。
「お願いしてもいいのかしら」
「できることはほんの一部です。これが絶対真実だと証明してみせることはきっと不可能でしょう。でもできる限りのことはしたいと思います。
探し物探偵としても、朝陽ちゃんの友達としても」
それで良ければ、と付け加えると、十分だわ、と返してくれた。
正哉くんが手伝いを申し出てくれたのも有難かった。つらい作業をさせることにはなるが、部屋のことや朝陽ちゃんのことをよく知った人が近くに居てくれると心強い。当然、ただの事故としてすぐに片付けられればその負担も少なくて済むが。
正直なところ、引っかかっていることがあって事故だと断定できないでいる。だから実を言えば警察に任せたくないとも思っていたのだ。できるなら僕が真実を見つけたかったから。可能性として浮かんだものが正しければ、それを彼女を少しも知らない人達に詮索されたくなかったから。
僕は清貴くんを呼んだ。捜索を始める前に彼の考えを聞いておきたかったからだ。戸惑う瞳がこちらを向く。
「どうしてさっき、自殺の可能性を考えたの?」
事故だと考えているようだったのに、自殺という言葉を出したのが気になっていた。多枝さんの暴挙で流されてしまったけれど。
自殺に至るような経緯を彼が個人的に知っていたとしたら。不良っぽいなりをしていても面倒見がよく"たか兄"と呼ばれて慕われている。他の人に打ち明けなかったことを彼には話していたということもあり得ると考えた。
期待を込めて見ていると、口元を動かしながら質問の意味を何度か逡巡して、それから首を捻った。
「可能性とか、そんなんじゃない。ただ確認したかっただけで……」
「事故だったと確認したかった?」
「だって、怖ぇじゃん。ハサミが刺さったんだろ? 偶然刺さったんなら気を付ければいいかって」
「それってたか兄、自分のことだけ考えてたってこと?」
蓮ちゃんが言って、清貴くんの身体が震える。考えないようにしていた図星を指された、そんな感じだった。
「分かんねぇんだよ! 目の前で見たのに、胸んとこ真っ赤になって、顔が真っ白くなって……見たのに、死んだって言われてもよく分かんねぇんだよ……頭が付いていかねぇんだ……」
頭を荒く掻き毟って、最後には怯える小さな子供のように身体を抱えた清貴くんの声が小さくなる。そして嗚咽に変わった。
誰も彼を責めることはできないだろう。こんなにも自分の考えに打ちのめされているのだから。悲しむことが正しいとか、泣かないのは非道だとか、そんなことはないと僕は思う。死に近付く少女の名を声を枯らしてまで呼び続けた彼のどこが人道的でないと言えるだろう。蓮ちゃんはそれ以上何も言わなかった。
このままにしておくのが良いとは思わなかったけれど、僕から言えることはないようにも思えた。心苦しいがすべきことを始めよう。
満月ちゃんは知里さんの隣の席に座ってもらった。まりもちゃんもゆうくんも一緒だ。寂しい思いもしないだろう。置かれるがままに着席したその姿は人形のようで、天使みたいに見えたあの華やかさは欠片もなかった。けれどずっと傍に居てあげることは難しい。寧ろ早く終わらせるのがこの子のためではないだろうか。すぐに戻ってくるよという意味を込めて、乱れのない三つ編みをそっと撫でた。
正哉くんと共にリビングを出る。まずは現場からかと考えたところで予想外の発言に足が止まった。
「部外者が入り込んだってことは絶対にないと思いますか?」
そう言った正哉くん自身もそれを信じているという訳ではなさそうだ。しかしそう考える気持ちも分からなくはなかった。
「隠れられれば不可能ではない、かな。まずはそういった痕跡がないか、外を探してみようか」
「……ありがとうございます」
自分から手伝いを申し出たとはいえ、喜んでしたいんじゃない。気丈な振る舞いが本心とは限らない。
知りたいけど知りたくない。知りたくないけど、知らない方が怖いから。だからありそうにもない予想を挙げて、可能性を潰していく。そうやって自ら、近付く真実から目を逸らせなくする。それが無駄な遠回りだと分かっていても。そうでもしなければ、受け入れることなどできないのだ。
僕も同じだった。この悲劇に悪人が居てほしかった。悲しみをぶつけられる、憎しみを喚き散らせる相手が居てくれたなら。
そんな常識から外れた考えさえも当たり前のように浮かんでしまう、それが死だ。――幼い命の消滅だ。
どの道を選んでも拭えない悲しみなら、せめて望む仕方で真実への一歩を進むべきだ。その手助けができるなら僕は何だってしよう。この家族のために力になりたいと願ったのだから。
誰もが後悔しないように、真実を探し出してみせよう。
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