玉虫色の依頼、少女達のストライド

些稚絃羽

9.母親の瞳

 分からないことは美奈子に聞けばいい、と勧められて階下に降りることにした。リビングに入ったところでこちらに背を向けて立つ美奈子さんを見つけた。気配に気付いたのか振り返った美奈子さんはもう、いつもの顔をしていた。溌剌とした、向けられるだけで力をもらえるような。
 この親子は本当によく似ている、ずっと内側の根っこの部分が。

「搬送が少し遅れるみたいだから、先に帰ってきたの」
「おかえりなさい。お疲れ様です」

 言い訳みたいに言う美奈子さんにそう返した。そっちこそ、と言われたのは既に知里さんから状況を聞いて知っているかららしい。事はもっと複雑で僕では力不足のようであることを詫びたけれど、快活な笑い声で一蹴された。

「何かしてくれようと思ってくれるだけでどれだけ助かってるか。どのくらいしたかとか結果がどうだとかそんなことじゃなくて、どんな思いで今ここに残ってくれているか、ちゃんと伝わってるから」

 先のことなんて分からない、最後の最後で失敗するかもしれない。だけど行動するための原動力は心の中に生まれている。それはアスファルトに咲く一輪の花のように、逞しくも汚れなく胸の内を染めるんだ。
 もっと強く育てよう。枯れ落ちてしまわないように。思いが何より必要なら、きっと誰にも負けないから。

「お話しする時間はあるでしょうか?」
「多分まだまだ来ないと思うわ。……ここではなんだから」

 美奈子さんに付いて庭へ出る。仕舞わないまま置かれていたビニールシートを適当に広げて並んで座った。空は少しずつ暮れ始め、薄紅色に流れる雲が西の山間で解けていった。
 暫く景色を眺めていた。静かで穏やかな時間は幾らか残酷で、時折どうしようもない焦燥感に息を詰まらせる。そんな時、隣に気配を感じるとひどく心が凪いだ。母親の気配に似たものを感じるからかもしれなかった。

 そうしてから僕は口を開いた。

「朝陽ちゃんは僕に依頼を申し込みました。「みぃちゃんがひとりになったら、みぃちゃんをまもってあげて」、と。ひとりになるというのはどういうことか尋ねると、「チョーワだよ」とだけ答えてくれました。
 チョーワについては既に聞いています。ふたりは僕が思っている以上のもので繋がっていることも分かりました。でもその依頼をした意味が分からないんです。美奈子さんには分かりますか?」

 美奈子さんは僅かに顔を翳らせて、私では役に立たないみたい、と呟いた。

「立場は母親でも、本当の意味で母親にはなれない。いつかは皆ここを出ていくから。……そんな風に思っていたから何でも話せる母親になってあげられなかったのかな」

 実の母親にだってすべてを打ち明けられる訳ではないのに。美奈子さんも寂しかったのかもしれない。それは多枝さんが感じていたものときっと似ている。彼女達の取り残されるような気持ちは保証された関係でしか埋めることができない。美奈子さんには知里さんが居るけれど、また違う関係だ。
 朝陽ちゃんが何でも打ち明けていたら何かが変わったのだろうか。両方の結末を経験できない人間は不便だ、知里さんの言葉に納得する。けれど一方しか知れないからこそ自分の選んだ方を最良だと思う、これも知里さんから教わった。
 何一つ間違いなんてない。あの子達と懸命に過ごしてきた美奈子さんの日々には、決して。

「これまで一度でも愛情を持たなかったことがありますか」
「いえ、一度もなかった。私なりに愛情を注いできたつもりよ」
「子供達を見ればそれが分かります。何ができたかじゃなく日々愛してきたこと、その思いがあれば十分すぎるほど皆さんは家族ですよ」

 美奈子さんが教えてくれたんじゃないですか。そう言うと、やられたな、と芝居臭く額を打った。



 僕は四人から聞いたことを話した。それらの意見は“母親”である美奈子さんにどう映るだろう。話終えるまで口を挟むこともなく真剣な表情で耳を傾けていた。それから、私も個人的な意見だけど、と前置きして話し始めた。

「ほとんどは皆が見ている通りだと思うわ。けど訂正するとしたら、満月が朝陽に依存していたというのは違う。後ろを付いて回る姿はそう見えたかもしれないけどね。
 本当に依存していたのは、朝陽の方だった」

 それはまた新たな見解だった。

「朝陽は満月に比べれば自分の考えとか気持ちを積極的に言う子よ。でも見かけほど強い子じゃない。満月の賛同がないと不安で仕方なかった。考えを言って、満月がそうしようって言ってくれるから前を走っていただけなの」
「……少しも気が付きませんでした」
「一度、満月だけが高い熱を出したことがあったの。四歳になる前だったかな。そうしたら朝陽が大泣きしながらご飯もお風呂も嫌がってね、みぃちゃんとじゃなきゃ嫌だって言い張って大変だったの。それがなかったら私も気付かなかったと思う」

 そんな一面があったとは。僕が見てきた限りふたりが相談しているところに出くわしたことはほとんどない。あれは事前に話が交わされていたのだろうか。恐らく秘密裏に行なっていたのではなく、自然とふたりきりの時に話していたから誰にも気付かれなかったということなのだろう。まさかこんな事実が飛び出してくるとは思わなかった。

「どうしてそんな風に依存するようになったんでしょう?」
「一つには姉妹関係のせいだと思うわ」

 皆勘違いしてるけど満月の方がお姉ちゃんなのよ。
 もう、自分の頭の中のどれを信じていいか分からなくなった。そうだろうと思っていたことが覆されては塗り替えられて。見てきたものも疑いたくなってくる。
 満月ちゃんが姉で、朝陽ちゃんが妹。妹だから姉が居ないと不安だった、意見を認めてくれないと動けなかった。一般的な姉妹とも双子とも縁遠いからそれが普通かそうでないかも分からないけれど、ふたりの間ではそうだった。心を大きく占めるものだったに違いない。

 他にも原因があるのか聞くと美奈子さんはこう答えた。

「満月を特別な存在だと思っていたんじゃないかしら」
「特別、ですか」
「満月には胎内記憶があるの。自分の知らないことを知っているから、神様を見るような気持ちだったのかもしれない」

 胎内記憶とは、その名の通り母体の中に居る時の記憶のこと。一般的には忘れられる記憶だが一〇〇人に一人程度の割合で、その記憶を鮮明に持ったまま育つ人も居るのだそう。満月ちゃんはその胎内記憶を持っていた。

「具体的にはどんな記憶だったんですか?」
「『ひとりだったら良かったのに』」
「え?」
「胎動を伝って聞こえてきたんだって。母親が『ひとりだったら良かったのに』って言うのが、何度も」

 ひとりだったら――双子じゃなかったら?
 それを語る少女はどんなだっただろう。どんな気持ちでその言葉を聞き、自分の声にしたのだろう。

「母体の中に自分でないもう一人が居るのに気が付いて、私が居なかったらこの子は愛されるのに、って思ったみたい。私の解釈になっちゃうけど」
「満月ちゃんが自分を嫌っているというのは、そのせい……?」

 なんて哀しい、優しすぎる心なんだ。
 産まれる前から朝陽ちゃんを思い続けて、きっと自分の存在を否定し続けて。不安がるその子のためにずっと背中を守っては、ひとり旅立っていける日を願っていた。自分のせいで愛されることを望めなかった妹のために、ただひとり一心に愛される家族に出会えることを。
 本当は違う、どちらのせいでもないんだ。悪いのは理不尽に愛することを諦めた大人の方なんだ。結局そのひとりさえ愛することもできなかった無責任な大人のせいなんだ。それなのにどうして、たった八歳の女の子が代わりの荷を負わなければならないんだ。小さな背で担ぐにはあまりにも大きすぎる責務だ。
 委ねてしまうことはできなかったんだろうな。そんな思考を文字通り持って産まれてきたから。守るのが当たり前で、支えることがせいだから。それがきっと生きる意味だったんだ。

 しかし今、生きる意味を無くしてしまった。思い描いていた通りに見送れなかった彼女はどうなってしまうだろう。あの、人形のような冷たい表情。これまでのように笑える日を迎えられるのだろうか。

「これからは自分のために生きられるでしょうか」

 そうであってほしい、こんな風にひとりになってしまったからには。でも。

「あの子は今までも、これからも、多分朝陽のためにしか生きられないと思う。双子だからじゃない、それを超越したところで結ばれているから」

 そうなんだ。どれほど月日を重ねても忘れられないことがある。薄れるどころが日に日に輪郭を濃くしていく記憶が、繋がりが。ふたりの繋がりはその最上級に強く色濃いものの筈で。ただの思い出には決してならないだろう。
 美奈子さんは携帯電話を取り出すと、表示された一枚の写真を見せてくれた。

「絵ですか」
「ふたりが描いてみせてくれたの」

 そこには二枚の絵が並べられていた。どちらにも女の子が描かれていて、胸元に大きなハートがあしらわれている。よく見えないがハートの中にも人らしきものが描かれているようだ。

「自分の絵を描いてって言ったらふたりともこんな絵を描いたの。自分の心の中に住んでるんだって、満月には朝陽が、朝陽には満月が」

 この絵を描いたのは五歳の頃だと言う。そしてそれから朝陽ちゃんはひとりの時も不安がることがほとんどなくなったらしい。自分の心の中に住んでいると思うことが支えになっていたのだろう。それでも彼女達はふたりで居ることをやめなかった。やめられなかったのかもしれない。どんなに信じていても心の中の存在は目には見えないから。目の前に居てくれる以上の力はきっとそこにはない。
 そうか。朝陽ちゃんが満月ちゃんに依存していたのなら。

「もしや、朝陽ちゃんの方が里親を断ったのでは?」
「そう、とても良いご夫婦だったんだけど突然ふたりを育てられる方っていうのはなかなか、ね。みぃちゃんが一緒じゃないならごめんなさいって自分で断ってたわ」

 依存とは少し違うのかもしれない。ひたすらに大切で一緒に居たい、ただそれだけ。一緒に居られなければ他の誰かにどんなに愛されても足りない。まさにこの絵のように一心同体、自分の一部のように思えていたのだろう。
 断ったことを知った時、満月ちゃんはどんな気持ちだっただろう。願いの届かない選択にがっかりしたのだろうか。そうなら反対に朝陽ちゃんはどう思っただろう。自分の選択を受け入れてもらえていないことに気付いたら、その衝撃はどれほどのものだろう。
 唯一の支えを失ったと感じたら? その先選ぶのは――死?
 いや、それにしては時間が経ち過ぎている。今日まで待つ意味もないし、そうしていれば考えを改めることもあるだろう。ならどうして、こんなことになったんだ。
 もどかしさに苛立ち始めたせいで、美奈子さんの呟きを聞き逃しそうになった。

「私ね、チョーワはあの子達の狂言だと思ってたの」
「……狂言」
「確信してたんじゃなくて、何となくそう思ってた」

 狂言、それに意味はあるだろうか。私がそうだったから、と続けられる言葉に耳をすました。

「私と母、顔が似てないでしょ。母がここを始めた時に周りの反対が酷くて、おまけに関係ない誹謗中傷も沢山受けてさ。顔が似てないせいで、よその男の子供なんじゃないかって陰口を叩かれることもあったのよ。
 その度に母さんが寂しそうな顔するのが子供心につらくて、どうにか似せようとして同じ所にほくろをペンで書いてみたりしてた」

 知里さんの口からは出なかった過去が明らかになる。あの遠くを見つめる眼差しの中にはその光景もあったのだろう。健気な娘の姿は愛しくも切なかったに違いない。美奈子さんも笑って話すけれど、当時の心境はそんなものではなかっただろうと思う。相づちを打つこともできなかった。

「血が繋がってても不安になることはある。どこかが本当に繋がってる訳じゃないんだもの。簡単にひとりになってしまえるんだもの。
 ……顔が似てても鏡の前で隣合って見なきゃ分からないから、示し合わせて傷を付けて、それをふたりにしかない力だと思うことで繋がりを感じたがっているのかなって思ってたの。私と一緒にしちゃいけないんだけどね」

――簡単にひとりになってしまえる。
 これまで多くのそうした子供達がここで時を過ごした。僕にとって血の繋がりは嫌になるほど強い。しかしそれはあっさりと忘れてしまえる、目に見えないものだから。だからこそ別の繋がりで家族になることもできるのだけれど。
 美奈子さんの想像は、あり得ないことではないと思った。傷なんて痛みの伴うものをわざわざ付けるのは信じがたいことではあるが、何かを共有することが繋がりを感じる要素でもあるように思う。興味深い点だ。

「私が話せるのはこれくらいかな。悪いけど、中の準備もしたいしそろそろいい?」
「はい、ありがとうございました」
「あ、良かったらさっきの絵見てあげて。きっと喜ぶ」

 あるのはあの部屋だけど、と言い残して美奈子さんは入って行った。

 朝陽ちゃんと満月ちゃんの関係性について多くのことが分かった気がする。しかしだからと言って朝陽ちゃんの死の真相が、依頼の理由が明白になったとは言えない。真っ白なパズルのピースを掻き集めているような気分だ。集めても集めても完成形を想像することもできなくて、あと幾つ集めればいいのか検討もつかなくて。
 それでも諦めたくない。諦める訳にはいかないんだ。少女の声無き声を聞き届けるべきなのは残された僕達、大人でなくてはならないと思うから。それは幼い心に委ねてはいけないと思うから。

 

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